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私の被爆ノート

見慣れた風景、無残に

2008年11月6日 掲載
伊豫屋俊治(76) 伊豫屋俊治さん(76) 入市被爆 =長崎市筑後町=

あの日、わたしは旧制長崎中一年で十三歳だった。自宅がある寿町二丁目(現長崎市宝町)と、母方の実家で疎開先の茂木町を行き来して生活していた。

学校は夏休みで、午前中に母親がいる自宅へ帰るためにバス停に向かった。道を歩いていると、頭上でエンジンの爆音が響いた。その上空には橘湾の方向から長崎市街地へ向かう一機の飛行機が見えた。太陽光が機体に反射してキラキラと輝くB29。機体から二つの物体が落ちていくのが見えた。白い落下傘が開き、間もなくして、これまで感じたことのない強烈な閃光(せんこう)が辺りを包んだ。その後、爆風が砂ぼこりを巻き上げて襲ってきた。

近所の人が道端に飛び出し、わたしに「こっちに来て隠れなさい」と言った。サツマイモを保管貯蔵するために地面を掘った芋窯に入れられた。周囲は混乱状態。わたしも何が起こったのか理解できなかった。わたしは自宅へ帰るのをあきらめて茂木町に残った。「市街地で何が起こったのだろう。父や母は無事だろうか…」。不安が募った。

夕方、幼い妹を抱えた父と母が家に帰ってきた。爆心地から離れた場所で働く父は無傷だったが、母は顔や腕を負傷して血だらけで、ぼろ布を巻いた状態だった。壊滅状態となった市街地の交通機関は完全にまひし、歩いて戻ってきた三人は疲れ切っていた。

翌日、父と自宅にある使える物を探すために市街地に行った。長崎駅から浦上方面にかけて、見慣れた風景が無残に変わっていた。家屋や商店がぺしゃんこになり、家の倉や柱が点々と残っているだけだった。途中、風船のように膨らんで焼け死んだ馬も見た。自宅の焼け跡には使える物がほとんどなかった。皿などの陶器は残っていたが、表面が変色し、プツプツと気胞のようなものができて変形していた。爆心地から約二キロ離れた自宅でも深いつめ跡を残した原子爆弾。その威力にただ、がくぜんとした。
<私の願い>
核兵器を二度と使うことのない世界になってほしいが、最近はインドや北朝鮮などで核拡散の動きがある。そんな中で、長崎市や被爆体験の語り部の方々が取り組んでいる核廃絶を目指す努力を心から応援している。わたしも、できる範囲で孫や子どもたちに戦争体験を伝えていきたい。

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