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私の被爆ノート

真っ黒な灰に身震い

2008年10月30日 掲載
武本 久子(72) 武本 久子さん(72) 入市被爆 =長崎市浜平2丁目=

「母ちゃん、あれ何?」 縁側から続く小さな庭で一人遊んでいると、上空に白くて巨大な雲が見えた。 「はよ家ん中に入れ!」

母の怒声が聞こえた次の瞬間、強烈な風。家具が散乱し、畳も吹き上がった。

当時九歳、銭座国民学校三年生。家族は両親のほか二人の姉、二つ上の兄、幼い妹。自宅は爆心地に近い現在の浜平一丁目付近だったが、あの日は、一番上の姉の出産に伴い、母と兄、妹の四人とともに疎開先の借家にいた。

翌日、母は兄と妹を連れ、父と次姉を捜しに自宅へ戻った。ひとまず父の無事が分かり、次の日には全員が自宅へ。赤ちゃんを背負いながらの道のりは長く感じられた。

市内中心部はまだ燃え続け、それが怖くて泣いた。銭座国民学校の前まで来ると、グラウンドに廃材を組んで、死体を次々に焼いているのが見えた。真っ黒な灰が体に付いた。気持ち悪くて慌てて払いのけた。あの光景を思い出すと今でもぞっとし身震いする。

自宅は、爆風で倒壊。近所の竹やぶに蚊帳を張り、そこで暮らした。竹やぶでは血を流し、やけどを負った人々であふれ、もだえ苦しみ、息絶えていくのを毎日見た。

当時十四歳の次姉はシスターを志願し、上野町の常清高等実践女学校(爆心地から〇・六キロ)に通っていた。学徒動員先で被爆したが、辛うじて生き延び、大浦町の修道院まで歩いて逃げたそうだ。母が見つけ連れ帰った。次姉は下痢や嘔吐(おうと)が止まらず、髪は抜け落ち、あずき色の斑点が体中にできた。

三菱長崎兵器製作所大橋工場(爆心地から一・二キロ)に勤めていた一番上の姉の夫も帰宅。衣服は焼けただれ、顔は大きなカボチャのように腫れ上がっていた。誰か分からず「本当に兄さんね?」と確かめた。

次姉は毎日、ロザリオで祈っていたが、八月二十八日、「母さん、マリア様が迎えに来てるよ」とつぶやき、息を引き取った。一番上の姉の夫も翌日亡くなった。
<私の願い>
戦争は絶対にあってはならないし、もう二度と経験したくない。日本が平和であり続けるよう願いたい。しかし、人の命を奪う事件は後を絶たない。自分よりも他人を思いやる心を持てば、世の中は平和になると思っている。家族や友人など自分の身近にいる人を思いやり、尽くしてほしい。

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