本田キマコ
本田キマコ(77)
本田キマコさん(77) 爆心地から3.6キロの長崎市矢の平町で被爆 =島原市八幡町=

私の被爆ノート

母と再会 涙止まらず

2008年10月23日 掲載
本田キマコ
本田キマコ(77) 本田キマコさん(77) 爆心地から3.6キロの長崎市矢の平町で被爆 =島原市八幡町=

一九三一年、南高神代村(現雲仙市国見町神代)に生まれた私は十一歳の時に父を亡くし、母と祖母、妹一人、弟二人の計六人家族。暮らしは貧しく、尋常小学校を卒業後、隣に住むマサ子さんを頼り、長崎へ働きに出ることにした。

矢の平町にあるマサ子さんの実家にお世話になった。路面電車で毎日、城栄町の護国神社へ通い、土木作業をしていた。当時十三歳。

四五年八月九日。朝から空襲警報が鳴ったので、護国神社へ行くのをやめた。新大工町の市場にジャガイモを売りに行き、午前九時すぎには矢の平町に戻った。

午前十一時ごろ、マサ子さんの赤ちゃんのお守りをしながら、庭へ出た。突然、辺りがビカッと光った。とっさに赤ちゃんを抱きかかえ、地面にはいつくばった。すごい爆風で庭の土が舞い上がり、家のふすまや割れたガラスが飛んできた。

石段を上り、三十メートルくらい離れた防空壕(ごう)に逃げ込んだ。半袖のブラウスを着ていたが、服をさすると左肩の部分が破れた。恐ろしくて、震えが止まらなかった。街の方から、血をだらだらと流して、ふらふらになりながら人が戻って来ていた。

防空壕の中は二十人くらいの人ですし詰め。何が起こったのか分からず、子どもも大人も泣いていた。二、三時間ほどたって町内会長さんが乾パンを配ってくれた。夜は不安で眠れなかった。翌日の昼まで防空壕で過ごし、家に戻った。

一週間くらいたって、神代から母が迎えに来た。家族はみんな、私が原爆で死んでしまったと思っていたらしい。母は「生きとったとね」と私の顔や体をなで、二人で抱き合った。私たちは声を上げて泣いた。しばらく涙が止まらなかった。

もしあの日、護国神社に行っていたら、原爆で死んでいたかもしれない。命に縁があったのだと思う。あんな思いは二度としたくない。
(島原)

<私の願い>
戦時中はひもじい思いをして、豆かすやイモのつるなど何でも食べた。飛行機が飛んできて逃げ回ったり、木の陰に隠れたりもした。子や孫、ひ孫の世代に絶対こんな思いはさせたくない。平和がいつまでも続いてほしい。

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