牛島美知子
牛島美知子(82)
牛島美知子さん(82) 爆心地から2.5キロの平戸小屋町で被爆 =神奈川県茅ケ崎市=

私の被爆ノート

火の海の合間を走る

2008年10月16日 掲載
牛島美知子
牛島美知子(82) 牛島美知子さん(82) 爆心地から2.5キロの平戸小屋町で被爆 =神奈川県茅ケ崎市=

当時、十九歳。県立長崎高等女学校専攻科の三年生。学徒動員で平戸小屋町の三菱電機本工場に通っていた。

二、三日前までは淵国民学校にあった分工場で働いていた。あの日。本工場の事務室で同級生と二人で机に向かっていた。突然、ピカッと光ったと思ったら、爆風が吹き付け、窓ガラスが全部割れた。とっさに、机の下に潜り込んでいた。隣の事務員の女性は顔中血だらけだった。

しばらくじっとしていたら職場の班長の指示があり、工場裏の大きな防空壕(ごう)に工員たちと入った。外で働いていた工員たちの背中はやけどがひどかった。工員たちの血が私のもんぺに付着していたことに家に帰るまで気付かなかった。私も左ひざを打撲していたが、痛みを感じる暇さえなかった。壕の中は真っ暗。事務室にあった大事な弁当と防空ずきんを持って同級生と並んで、じっと座っていた。

午後三時ごろだった。班長から「市営交通船に乗る人は壕から出るように」と言われ、同級生と手をつないで出た。また、いつ爆弾が落とされるか分からないという恐怖があった。「空襲警報が鳴ったら海に飛び込もう」と相談した。対岸の大波止に着くまでとても長く感じた。稲佐橋の方を見ると、火の海だった。

「自宅はどうなったのか」。不安になりながら、同級生と別れ、今博多町の自宅に帰ることにした。江戸町辺りも一面火の海。その合間を懸命に走った。両親や弟たちはみな無事で安心した。

父は警防団長をしており、勝山国民学校の救護所に出掛けていた。数日後、私も学校に連れて行かれた。被爆した人が教室にごろごろと横たわっていた。背中には無数のウジがわいて、とても恐ろしかった。

終戦後、弟たちと時津町の知人宅に行く途中、長崎駅近くでは木材を組んで遺体を焼いていた。浦上駅近くでは電車や牛、馬もみんな黒焦げになって放置されていた光景が今も忘れられない。
<私の願い>
当時の悲惨な光景は今も目に焼き付いている。原爆症によって、早くに命を落とした親友もいる。孫やひ孫がいるが、この子たちにあのような悲惨な体験は絶対させたくない。原爆は早くこの世からなくなってほしい。

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