当時、東彼杵郡宮村(現在の佐世保市宮地区)にあった宮村国民学校高等科二年生。学徒動員され川棚駅(現在の東彼川棚町)で改札係を担当していた。長崎市から搬送されてきた被爆者の救護に当たった。
八月九日は勤務中に空襲警報が鳴り、近くの防空壕(ごう)へ駆け込んだ。その瞬間、稲妻のような強い光が走り、近距離で爆弾がさく裂したようなごう音。
やがて、黄色、紫、赤と色を変えながら立ち上るきのこ雲が長崎市方面に見えた。同じ壕に入っていた海軍の軍人が「あれは新型爆弾じゃろう」と言った。
その後、駅長が「被災者救援の臨時列車が長崎から来る。今夜は帰れない」と通達。午後九時。最初の列車が到着した。中には焼けただれた人が足の踏み場もないほど横たわり、地獄のよう。「お水ちょうだい」と何度も声を掛けられた。
医者が「助からないと診断した人には、水をやっていい」と指示してくれたものの、負傷者をホームへ降ろす作業に追われ、渡すことができなかった。どうせ息が切れるのなら、飲ませてあげたかった。
負傷者は川棚海軍共済病院(現在の長崎神経医療センター)などに運ばれた。やけどで太ももから足首まで肉がめくれている人、ガラスが全身に突き刺さった人などがいた。「怖い」という感情がわいてこなかったのは、戦争中で感覚がまひしていたからだろう。
負傷者の輸送と救護活動は翌日午前五時まで四回にわたった。川棚駅で降ろされたのは、計六十-七十人くらいだったと思う。
学徒動員の前にも宮村国民学校の子どもらで地元に掘った大防空壕「無窮洞(むきゅうどう)」の土運びなどに従事。勉強らしい勉強はできなかった。戦後、子ども六人には同じ思いをさせたくないと、夫と毎日のように漁に出かけ、みんな高校や短大に出した。
<私の願い>
毎月九日、長崎市の平和公園へ行き「長崎の鐘」を被爆者の仲間と鳴らしている。北朝鮮やインドなどの核開発を聞くたび「核戦争が起きれば世界が全滅するのに、なんで」と思う。子どもや孫のため核のない平和な世界を願い続けたい。