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私の被爆ノート

真っ赤な太陽 不気味に

2008年10月2日 掲載
三瀬清一朗(73) 三瀬清一朗さん(73) 爆心地から3.6キロの矢の平町で被爆 =長崎市三景台町=

当時、伊良林国民学校の五年生で十歳。祖母や母、姉、妹、弟たちと八人暮らしで父は出征中だった。

あの日、午前十一時の少し前。家にあったオルガンの低音部分の鍵盤を押して面白半分に「飛行機のエンジンの音」を出して遊んでいた。昼食の支度をしていた祖母から「敵機が来たと思われるけん、やめとかんね」と注意され、オルガンのカバーを閉じた。次の瞬間だった。

ピカッと辺りに閃光(せんこう)が走り、数秒後、ものすごい爆風が家を襲った。私はとっさに、目と耳を両手でふさぎ、うつぶせになった。台風のときの突風とは比べものにならないほどの爆風が吹き抜けた。しばらくして目を開けると、畳がはがれ、折り重なっている。窓ガラスの破片が畳を覆い、柱やふすまに突き刺さっていた。私は壁のそばに伏していたのでけがはなく、家族も全員無事だった。

数時間後、近所の人から「浦上に新型爆弾が落ちたらしい」と聞いた。しばらくすると、黒い雨が降ってきた。紙の燃えかすや木のくずも混じっていた。黒い雲のすき間から真っ赤な太陽が見え、不気味だった。

夕暮れ時、近所のおばさんが母や祖母に「浦上方面は火の海」と教えてくれた。浜口町には、いとこたちが住んでいた。自宅でご飯を一緒に食べたり、遊んだりしてとても仲が良かった。安否が心配になった。だが、そのおばさんは浦上の惨状を想像し、母らに「子どもは連れて行かん方がよか」と話した。

数日後、市内の親せきがいとこたちを捜しに行ってくれた。しかし一面焼け野原。家が立っていた場所から炭のように黒くなった六人の遺骨らしきものを拾って持ってきてくれた。現在、その遺骨は市内の墓地に納めてある。毎年八月九日は墓石の前で黙とうする。「熱かったね」「つらかったね」と声を掛けながら墓石をなでてたっぷりと水を掛け、冥福を祈っている。
<私の願い>
戦後六十三年たったが、戦争はまだ終わっていない。今もなお、原爆の放射能による病気と闘っている人たちがいるからだ。若い世代にはそれを忘れてほしくない。周りの人への感謝、物を大切にする心を持ち、平和な世の中を築いてほしい。

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