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私の被爆ノート

顔が焼け焦げた同僚

2008年9月25日 掲載
広瀬 豊(78) 広瀬 豊さん(78) 入市被爆 =大村市大里町=

当時、旧国鉄長崎保線区鈴田線路班(大村市)に勤務していた。十五歳で同市小川内町に母と二人暮らし。兄二人はシンガポールなどに出征中だった。

現在の岩松駅から諫早駅までが受け持ち区間で線路の補修を担当。その日は鈴田地区のトンネルの入り口に網をかぶせる作業をしていた。米軍にトンネルの位置を知られないようにするためだ。

同僚六人と作業に汗を流していると、長崎方面から強烈な光と爆音がとどろいた。やがて空が真っ暗になり、みんなで「雷の落ちたとばい」「雨になるけん作業はやめて帰ろう」と話し合い、事務所に戻った。

翌日。新型爆弾で長崎市内が壊滅的な打撃を受け、道ノ尾駅から市内方面の列車が不通になっていることを、事務所で聞かされた。線路の補修と国鉄職員の救助のため、朝一番の列車で長崎市内に向かった。

大村の同僚のうち、当時長崎市内にいて、行方不明になっていた者もいた。救助班として、必死になって同僚たちの安否を尋ね回った。あちこちから煙が上がり、負傷者を大勢見かけたような気もするが、無我夢中でよく覚えていない。

稲佐山の入り口の石の上に腰掛けて亡くなっている人を見つけた。顔が真っ黒に焼け焦げ、うじがわき、誰か判別できないほどだったが、腰に見覚えのある懐中時計があった。当時、国鉄職員の多くが腰から下げていた懐中時計。それで大村の同僚だと分かった。

別の大村の同僚は、瀕死(ひんし)の状態で、諫早市の国鉄諫早青年学校に収容されていた。目や口からうじが出て、体中がただれていた。同僚数人と毎日、大村から通って介抱した。目が見えないのに「家に帰る」と言って聞かず、周囲に寝ていた負傷者を踏みつけて歩き回り、閉口した記憶がある。その同僚は終戦前に亡くなった。
<私の願い>
終戦後、復員した兵隊が「こがん恐ろしかことは二度とされん」と言っているのを聞いて、戦争の愚かさを痛感した。今、中東ではテロが続き、世界各地で戦火が絶えない。子どもたちに戦争の恐ろしさや親しい人を失う悲しみを味わわせたくない。この世から戦争がなくなってほしいと思う。

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