吉田 正子
吉田 正子(70)
吉田 正子さん(70) 爆心地から3.2キロの桜馬場町で被爆 =長崎市万屋町=

私の被爆ノート

大八車から人の足が

2008年9月18日 掲載
吉田 正子
吉田 正子(70) 吉田 正子さん(70) 爆心地から3.2キロの桜馬場町で被爆 =長崎市万屋町=

当時は小学二年で、七歳だった。

両親と姉二人の五人暮らし。あの日は、父と四歳離れた姉と三人で家にいた。父は新聞を読んでいた。飛行機の音がしたので父に伝えると、外にいる姉を呼ぶように言われた。

父が「防空壕(ごう)に入れ」と言った次の瞬間、ものすごい音が辺りに響き、気が付けば畳の下の防空壕に転げ落ちていた。何が起きたのか一瞬分からなかった。父と姉も防空壕に慌てて入ってきた。家の中の物が倒れる音がしていたので、音が収まるのをしばらく待った。

そのとき父が「これは新型爆弾やけん」と言った。とても恐怖を感じた。今思えば、父が直前まで読んでいた新聞には広島の原爆投下を知らせる記事が写真付きで載っていた。それを見て知っていたのだろう。

その後、町内の防空壕に行くため、姉と二人で父の後を付いて行った。外は道路一面にガラスの破片が散乱。けがをした人が右往左往していた。

町内の防空壕のうち二カ所目でやっと中に入ることができた。そこでは、大人たちが「飛行機に声が聞こえるから子どもを泣かすな」と言い、緊迫していた。

次の日になり、母は無事と分かったが、九歳離れたもう一人の姉の行方が分からず心配だった。姉は爆心地に近い大橋の工場で働いていた。

姉と再会したのは四日後。諫早市内の母の実家にいて、けがはしていたが無事でほっとした。姉は「家族はみんな死んでしまったと思った」と言っていた。

印象に残っているのが一カ月後の賑町付近での光景。普段はごみを収集する大八車の荷台から、人の足が何本か見えたので驚いた。

十二月に浦上を通り掛かったが、一面焼け野原で、道の脇にはまだ人の骨のようなものも落ちていた。
<私の願い>
悲惨な戦争の実情を孫の代まで伝えたい。今の若い人たちは戦争の痛みやつらさをよく知らない。大勢の方の犠牲があって今があるということを知らせたい。今後戦争が起こらないためにも、小さな活動だが戦争を知る一人一人が、語り継いでいくことで、平和活動の輪を広げていきたい。

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