足の踏み場がないほど、至る所には死人が倒れていた。「水を、水を」と叫ぶ声。川には水を求める人であふれていた…。わたしがいまだに忘れることができない「あの日」の風景だ。
当時、わたしは二十歳。三菱病院に勤務していた。柿泊に住む母の友人が、ジャガイモやたくさんの野菜を分けてくれるというので、八日から仕事を休み、柿泊で一泊した。翌朝午前八時ごろ、もらったジャガイモを袋に入れて背負い、両手には野菜を持って西坂町の自宅に向かった。油木町付近に差しかかった時、「ピカッ」と閃光(せんこう)が走り、突然目の前が真っ暗になった。わたしは爆風で飛ばされ、しばらく気を失ったようだ。気が付くと長崎駅方面から、洋服がビリビリに破れた人や、顔がやけどでどす黒い人、髪の毛がチリチリになった人らが次から次にやってくる。その姿を見て、両親が心配で必死に帰宅を急いだ。
茂里町付近を通った午後三時ごろ、付近ではまだ炎が上がっていた。帰宅途中で見た町の景色はそれまで見てきたものと全く違っていた。道にはたくさんの人が倒れ、ほとんど水もない川には、水を求める人が重なり顔を突っ込んでいる。「水をくれ、水をくれ」とせがまれたりもした。わたしは死人をまたぎながら、ひたすら自宅に向かった。
日本放送協会長崎放送局(現NHK長崎放送局)近くの防空壕(ごう)に避難しているはずの両親はおらず、おじから防空壕近くの墓にいると教えられた。大勢の人が防空壕に押し寄せ、入ることができなかったらしい。その後しばらくは墓で寝ていた。わたしたち家族だけでなく、防空壕からあふれた多くの人たちも一緒だった。家は全焼したが、家族と離れ離れにはならず本当に良かったと思う。墓で寝たり、死人を乗り越えて歩いたことなど、今考えると恐ろしい。あの時、長崎の町は遺体ばかりで感覚がまひしていたようだ。十五日、玉音放送を聞いた時「やっと戦争が終わった」とほっとした。
<私の願い>
二度と戦争のない平和な世界にしてほしい。今の若者は戦争の恐ろしさを知らないが、何よりも悲惨であり、子どもや孫たちには絶対に同じ思いをさせたくない。あの日を教訓に、戦争を解決の手段にするのではなく、今後も変わらず平和に生活できることを望んでいる。