「有田です。有田の子どもはいますか。有田の子どもは…」。八月九日、夜。防空壕(ごう)内に、普段はもの静かな母の叫び声が響いた。私は母にしがみつき、その時初めて泣いた。防空壕の外は、真っ黒な空が広がる一方、浦上方面だけは、不気味に真っ赤に染まっていた。
あの日。セミがせわしく鳴き、日差しが強く暑苦しい朝だった。有田家の次女として生まれ、当時六歳。警戒警報の解除を鳴滝町の自宅で待っていた。九日はしょうゆの配給日。解除後、すぐに配給に並ぼうと、空き瓶を二本、風呂敷に包み父の仏壇の前に置いた。
ふらふらと飛んできた飛行機を、きょうだい五人で二階の縁側で眺めていた時だった。稲妻のような光。耳を突くごう音。押し寄せる爆風。けがはなく、あわてて一階の畳の下に掘った防空壕へ階段を転がるように下ったが、そこはガラスの破片が散乱。外に出た。
あまりの変わりように驚いた。涙も出なかった。周囲の家々はガラスや瓦が吹き飛び、まるで裸になったよう。あれだけ騒がしかったセミの声はやんでいた。急いで町内の防空壕へ向かった。
防空壕では、きょうだい身を寄せ合い母の迎えを待った。大やけどを負った人、髪の毛が縮れて逆立っている人、ガラスが刺さり血だらけの人がよろよろと防空壕の中に入ってきた。怖くて怖くて、必死に兄にしがみついていた。母が迎えに来たのは、深夜近く。母は県立高等女学校の教師で、学生の手当てをしてから、駆け付けたという。
防空壕での生活が始まった。壕内は異様なにおい。食事の時だけともす、ろうそくの光が原因を教えてくれた。壕内にいた自宅の隣に住むお兄さんの焼けただれた体には、うじがわいていた。異様なにおいとお兄さんの泣き声が忘れられない。
十五日、天皇のお言葉がラジオで聞けるということで、自宅に戻り正座して「玉音放送」を聞いた。放送が終わると母は静かにつぶやいた。「戦争は終わりました」
<私の願い>
戦争はある日突然起こるものではない。平和を築き、平和を守っていくには、戦争を引き起こそうとする力の何倍ものエネルギーが必要だ。 平和憲法を宝として、九条を守り生かす立場をつらぬいて、被爆者の願い「戦争放棄」「核兵器廃絶」を若者に受け継いでほしい。