松尾 孝
松尾 孝(72)
松尾 孝さん(72) 爆心地から7.5キロの西彼長与町で被爆 =西彼時津町=

私の被爆ノート

空に白く燃える玉

2008年8月28日 掲載
松尾 孝
松尾 孝(72) 松尾 孝さん(72) 爆心地から7.5キロの西彼長与町で被爆 =西彼時津町=

当時、私は九歳で長与小の三年生。自宅は西彼長与村(当時)にあった。原爆が落とされる数日前、近くの田んぼの上空からバラバラと何十枚ものビラが降ってきたのを覚えている。どこかの飛行機がばらまいたようで、紙を拾いに行こうとすると「危ないから子どもは近寄ってはいけない」と近所の大人に止められた。ビラは「数日後、長崎は灰の街になる」という内容だったと、後でその大人に教えてもらった。

八月九日は朝から晴天だった。私は自宅の一階にある台所で、昼食の支度をしている母のそばにいた。突然、窓から閃光(せんこう)が飛び込んできた。南方の空を見ると、光の中に白く燃える玉が見えた。いつの間にか、窓ガラスすべてが吹き飛ばされ、破片が周辺に散乱していた。

外で何が起こったのかを確認しようと二階の大広間に向かった。そこもガラス片などで覆われ、立ち入ることができなかったが、家の天井が突風で吹き上がり、十数センチずれていることに気付いた。そのすき間から、黒く染まった空が見えた。

「新型爆弾が落とされた」「長崎は壊滅状態だ」。大人たちの騒ぐ声が聞こえた。その夜は、家の裏の防空壕(ごう)で過ごした。その時に、ふと思った。「数日前に空から降ってきたビラは、敵がばらまいたのだろう」。

通っていた小学校には長崎から多くの負傷者が汽車で運ばれて救護所となった。上級生が、血がべっとり付いた机やいすを外へ運び出し、校舎の脇を流れる川で洗っているのを見て、惨状と化した長崎の様子を想像した。

今年八月。私は米従軍カメラマンの故ジョー・オダネルさんが被爆後の長崎を撮った写真展を見ようと、長崎原爆資料館に足を運んだ。じかに見たい写真があった。荒野で、死んだ幼子を背負う少年の姿を撮影した「焼き場に立つ少年」という名の作品。当時、私と同年代の少年の凜(りん)とした姿を見て、戦争がすべてだった当時の悲しい学校教育を思い出した。無意識に涙がポロポロこぼれた。
<私の願い>
戦争体験を語る人が年々高齢化している中、原爆資料館などの写真や遺品を使った原爆展を各地で開くことは平和を受け継ぐ有効な方法。開催を拒む国も多いが、粘り強く呼び掛ければ心は通じる。世界中の人が目で見て戦争の愚かさや原爆の恐ろしさを感じとれば、平和の大切さに気付くと思う。

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