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私の被爆ノート

救護に見た「地獄絵図」

2008年8月14日 掲載
中道 義若(78) 中道 義若さん(78) 救護被爆 =諫早市本明町=

長崎の方角の空が突然、ぱあっと一面、夕焼け色に光った。数秒後、地響きを感じ、イネの葉っぱが向こう側から順に風になびいてきた。当時、十五歳。家の近くの諫早市本明町の田んぼで、母と一緒に草むしりをしていた最中の出来事だ。「何か大変なことが起きたのでは…」。しばらくすると、遠くの空が墨色に変わっていった。

「諫早駅に救援列車がくる」。所属していた警防団の呼び出しを受け、現地に駆けつけたのが午後五時ごろ。列車は既に到着していた。駅のホーム、待合室、広場は体中焼けただれ水膨れした人、皮膚が垂れ下がった人らで埋め尽くされていた。「地獄絵図だ」と思ったが、原爆投下の事実は知らなかった。

重症者は即座に、駅近くにあった海軍病院へ運ばれた。私は、かろうじて歩くことができる人たち数十人を数キロ離れた教員養成所まで案内した。「水を飲みたい」と訴える負傷者が多く、途中で何度も民家に立ち寄り、水をもらった。

翌日。再び「諫早駅に集合」の呼び出し。理由は分からないまま向かうと「海軍病院へ」と次の指示があった。そこで遺体安置所に連れて行かれた。竹棒とムシロで急ごしらえした担架で、近くの寺に運ぶことになった。ところが、その寺は遺体であふれ、結局、お経を上げてやれないまま、遠い火葬場まで運んだ。これを三回くらい繰り返した。

さらに、次の日。今度は、その火葬場での遺体処理の役目だった。一度に十体ほど、廃屋を壊した木材と一緒にガソリンをかけて焼いた。「かわいそう」。そう思うと、とても精神が持たない気がした。何も考えないようにと自身に言い聞かせ、黙々と取り組んだ。

それが数日間続いた。運ばれてくる遺体はウジがわいたものが多くなり、その死臭は決して忘れることができない。死体を見ただけで、ご飯ものどを通らない状態だったが、次第に何とも思わないようになった。

私の「十五の夏」は、こうして過ぎ去った。
(諫早)

<私の願い>
戦争だけはよくない。絶対にやってはいけない。私は当時、まだまだ社会のことがよく分からない少年だった。今の若者たちにそういう経験をさせたくはない。原爆投下について「戦争終結を早めるため」との意見を示す人たちがいるが、史実を調べるとそういう指摘は当たらない。原爆は落とす必要がなかった。

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