当時、旧制中学の四年生。学徒動員で現在の原爆病院付近の三菱製鋼所第二工場に勤めていた。
一九四五年三月下旬、強制疎開のため、浦上駅前の岩川町五丁目から馬町に移り住んだ。馬町に転居したことで警戒警報や空襲警報の発令のたびに、丸山町の福砂屋にある警防団に出向き、各町内会長宅に発令を伝えに行くことになった。
あの日、動員先へ出勤しようとしていた時だった。警戒警報が発令されたので工場には行かず、直接警防団へと向かった。午前十時ごろ、警戒警報が解除されたので、工場へ戻ろうと思い、下級生に声を掛けると「敵機が鹿児島上空を北上中と言ってます。すぐ戻ることになるから、昼食を済ませてから行きましょう」と言う。二人で早めの昼ご飯を済ませ、警防団のおじさんたちが囲碁を打っているのを見ていた時だった。突然、「ピカッ」と鋭い閃光(せんこう)が走った。急いで机の下に身を伏せた。爆風で窓ガラスが割れた。しばらくすると、やけどし皮がペロリとはげてぶら下がっている人、顔が分からないほど負傷した人、手足から血を流している人らが警防団の前を歩いていた。地獄絵を見ているようだった。
夕方、詰め所前に集められ、警防団の副団長の指示で帰宅。家族が心配でひたすら家を目指して歩いた。帰り道の風景は覚えていない。それほど夢中で歩いていた。馬町の自宅は割れたガラスが散乱し、たんすなどが倒れ、足の踏み場もないほど。朝出てきた時とは全く違っていた。
原爆落下当時、父は姉の住む上小島にいた。小屋の屋根の上で作業中だった父は爆風で真下に落下。血まみれで気を失った。けがのなかった母も父の大量の血を見て失神。家族一緒だったが、両親の容体が心配で不安な一夜を過ごした。父はその後、意識を取り戻し一命を取り留めた。
あの日、どす黒い色をしたきのこ雲と燃え上がる赤い炎で長崎の町は何とも言えない不気味な雰囲気だった。あの風景は鮮明に記憶している。
<私の願い>
戦争反対、恒久平和を願っている。戦争でプラスになることは何一つなく、あんなにつらい思いを子どもや孫、若い世代に経験させたくない。世界平和のためには、家庭の平和からだと考えている。家族だんらんを大事に、子どもには時に厳しく接していかなくてはいけないと思う。