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私の被爆ノート

夜通し燃え続けたまち

2008年7月31日 掲載
永尾 洋一(75) 永尾 洋一さん(75) 爆心地から2.1キロの西坂町で被爆 =長崎市田上3丁目=

あの日は午前十時ごろから現在の「長崎にっしょうかん」(長崎市西坂町)付近で、飛行機の燃料に使う松根油を採集していた。雲が多かったが、合間から時々太陽がのぞいていた。十二歳。旧制長崎中の一年生だった。

松根油を入れた缶を提げ、木の茂みの中に立っていたら突然、真っ白な光に包まれた。驚きのあまりぼうぜんと立ち尽くした。数秒後、鉄板を地面にたたきつけたようなパーンという甲高い音。とっさにかがみ込んだら今度は強烈な風。けがはなかった。木に命を救われた。

何が起きたか分からなかったが「ただ事ではない」と思い、中川町(現在の中川二丁目)の自宅に急いだ。浦上方面を見ると、あちらこちらから黒い煙が立ち上り、空を真っ黒く覆った。無我夢中で走り、それ以外はよく覚えていない。

家に駆け込むと、母がおろおろしていた。中はガラスの破片だらけ。柱に突き刺さったものもあった。しばらくして父が帰ってきた。兄が右足から血を流し、引きずりながら帰って来た。家族全員がそろい、安心した。その日は四人で暗くなるまで家を片付けた。まちは夜通し燃え続けていた。遠くから見る光景は不夜城だった。

数日後、父と爆心地方面の様子を見に行くと完全な廃虚だった。真っ黒に焦げた人や馬の死体。やけどを負った人の「水を、水をくれ」という声。地獄の底から聞こえてくるようだった。長崎医科大まで行って引き返した。自宅付近で、死体を載せた荷車を男二人が引いているのを見た。学校の校庭や空き地などに運び、積み上げた木材の上で次々に焼いていた。恐ろしい光景。近づいて見ることはできなかったが、異臭は今も忘れない。

八月十五日の正午、町内会長の家の庭に住民が集まりラジオを囲んだ。天皇陛下の声は難しくてよく聞き取れない。だが、戦争が終わったことは分かった。これから日本はどうなるのだろう。不安もあったが「これでみんな死なずに済むのではないか」と思った。
<私の願い>
家庭の調和こそ平和の源だと思っている。社会は家庭から始まる。親子仲良く円満な家庭を築くことが、ゆくゆくは世界の平和につながっていくのではないだろうか。親は自分自身を見詰め直し、生活を正し、子どもたちは威張らず、見えを張らず、欲張らず、誠実に生きてほしい。

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