当時二十三歳。私は県庁の職員で、土地管理などを担当する耕地課という部署で働いていた。庁舎の二階の部屋で、窓ふきをしていると、突然、閃光(せんこう)が目の前を突き抜けた。周囲が真っ白になり、とっさに頭を抱え、その場に伏せた。
起き上がると、辺り一面にガラスの破片が落ちていた。建物の窓ガラスすべてが吹き飛んでいたのだ。しばらくして、情報が錯綜(さくそう)し始めた。「浦上の方が壊滅状態らしいぞ!」。怒号が飛び交い、仕事どころではなくなった。庁舎内はパニック状態に陥った。
私の自宅は爆心地に近い場所(現在の平野町)にあった。父や兄は戦地へ行っており、母と私の二人暮らしだった。母の元へすぐに行って安否を確認したかったが「危険だから」と、周囲に止められ、矢の平町にある親せきの家に身を寄せた。
二、三日が過ぎ、ようやく自宅に帰ることができた。しかし、母を捜すどころか、自分の家がどこに立っていたのかさえ分からないほど、辺りはがれきで埋め尽くされていた。それから毎日、母を捜して歩いた。手伝ってくれる人はいない。近所のほとんどが同じ状況だったからだ。近くに遺体が山のように集められている場所があり、そこも見て回ったが、見つからなかった。あまりの惨状に、地獄にいるような錯覚にとらわれた。
原爆が落ちて十日ぐらいして、自宅の前に立っていたキョウチクトウの木がボロボロになって残っているのに気付いた。その木を目印にして、自宅の場所が分かった。
母の遺体は玄関があったはずの場所に埋もれていた。真っ黒になり、うつぶせで倒れていた。時間がたっていたせいもあり、形も崩れていた。言葉を失った。無意識に涙がぼろぼろと出た。
それから、自宅の近くの防空壕(ごう)に荷物を移したが、とても住める場所ではなかった。親せきや友人の家を転々とした。時々、髪の毛がごっそりと抜け落ちることに、ただただ不安が募った。
<私の願い>
高校生一万人署名活動など若者が平和運動を続けていることは素晴らしいと思う。一方で、政治家が原爆投下を「しょうがない」と発言するような時代にもなってしまった。大人が戦争の記憶を忘れているのではないか心配。多くの若者が戦争の恐ろしさを正しく理解し、平和を受け継いでほしい。