田﨑由美子
田﨑由美子(77)
田﨑由美子さん(77) 爆心地から1.6キロの銭座町2丁目で被爆 =長崎市天神町=

私の被爆ノート

爆発音恐怖で眠れず

2008年7月17日 掲載
田﨑由美子
田﨑由美子(77) 田﨑由美子さん(77) 爆心地から1.6キロの銭座町2丁目で被爆 =長崎市天神町=

当時女学校の二年生だったが、体調を崩して休学し自宅で静養していた。「戦争は必ず勝つ。それまでは不便な生活にも我慢しなければならない」という風潮の中、なぎなたや防火活動の訓練が行われていたが、子ども心にも「これで対処できるのか」という疑問はあった。

八月九日、午前中に警戒警報が鳴り、自宅近くの防空壕(ごう)に避難していたが、解除になったので帰宅していた。いとこ、弟、妹と一緒に室内で過ごしていたときのこと、外で家事をしていた母が突然「飛行機から白いものが落ちてきた。早く逃げて」と叫んだ。その瞬間、強烈な光が差した。

一瞬、自宅に爆弾が落ちたと考えた。天井や壁が崩れ落ちてきたので妹を負ぶって、いとこと一緒に逃げ出した。自宅の前にあった電柱は燃え上がっていた。自宅近くの山に向かって逃げる途中、「水をください」「助けて」などと声を掛けられたが、どうすることもできなかった。近くにあった捕虜収容所からも外国の兵士たちがたくさん逃げ出していたが、怖がっている余裕はなかった。

山の頂上に着くと、全身にやけどを負った女性が赤ん坊を抱いていた。服がぼろぼろになっており、いとこが持っていたもんぺを差し出した。赤ん坊も死にそうな様子だった。頂上を目指して逃げてくる人たちはやけどを負って途中で動けなくなる人もいた。

自分自身も首や顔を切るけがをしていたが、逃げるのに夢中で気付かなかった。母と弟と再会することができ、その日の夜は五人で落ちていたトタンにくるまって過ごした。街は赤々と燃え続け、何かが爆発する音に恐怖を感じ、眠ることはできなかった。

翌日、母が自宅の様子を見に行ったが、がれきの山になっていたという。父と兄は勤務先で被爆し、対面することはできたが、その後亡くなった。二人に平和になった今の世の中を見せてやりたいと強く思っている。
<私の願い>
なぜ宗教や政治を理由に人間同士が争わなければならないのだろうか。今でも、新聞やテレビで海外の戦争について知ると、つらい気持ちになる。特に子どもたちの様子が報じられると自分たちと重ねてしまう。戦争に費やすお金やエネルギーがあれば、貧しい人たちを救ってほしいと思う。

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