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私の被爆ノート

やせ細る母 看病むなしく

2008年7月10日 掲載
土橋 信子(80) 土橋 信子さん(80) 爆心地から2.8キロの勝山国民学校で被爆 =佐世保市日宇町=

当時、闇取引の取り締まりに当たる県の経済保安課職員として、勝山国民学校(勝山町)三階にあった部署で事務を担当していた。

職場で上司から、「六日に広島に新型の爆弾が落とされ、閃光(せんこう)を見た人が全員死んだ」という話を聞いた直後に飛行機が上空を通る音がした。部屋の窓から赤や黄のさまざまな色がまざったまばゆい光が入ってきた。

「光を見てしまったので私も死んでしまう」と直観的に考え廊下に駆け出して伏せた途端、激しい爆風が校舎に届いた。吹き飛ばされないよう、懸命に床にしがみついていた。

しばらくたって、恐怖で閉じていた目を開くと、廊下には割れた窓ガラスが散乱。どのようにして外に出たのか覚えていないが、気が付くと足をくじいていた。

その日は、ほかの職員と立山防空壕(ごう)へ歩いて移動。浦上一帯が火の海になっていると聞き、稲佐町の家にいた家族の安否を心配しながら一夜を明かした。

翌日、私の居場所を聞き付けた母が防空壕へ来て、「家は全壊したが家族は全員無事だ」と教えてくれた。だが、母の元気な姿を見たのはそれが最後に。

その後、家族は足をくじいていた私を残し、父の実家がある西彼時津町へ疎開した。私が家族と合流したのは終戦の十五日。母は原因不明の下痢が続き寝込んでいた。

薬もない中、効果があるのかも分からない薬草を姉と一緒に母に飲ませ、汚れた下着を近くの川で何度も洗った。毎日苦しみやせ細っていく姿を見ながら、もう助からないと分かりながらも、一日でも長く生きてほしいという思いで看病を続けた。

母は一カ月近く苦しみ、九月七日に亡くなった。看病中は母と満足に話すこともできず、看病の忙しさのため泣くにも泣けなかった。母の死を目の当たりにすると涙があふれ、思いっきり泣いた。
<私の願い>
戦争中は食べ物も着る物も満足になかったが、今は家電製品があり便利な生活を送っている。不便さを知らない若い世代に物を大切にする気持ちを持ってもらいたい。人の命を奪う事件が続いているが、みんなが自分よりも他者を愛する心を持てば、世の中が平和になると思う。

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