淵中学校一年生で十三歳だった。実家の飽の浦からおじたちが住む本原に母、兄と疎開していた。兄は仕事に出掛け、私は体調が悪く、学校を休んでいた。しかし寝込むほどではなく、外でトンボを捕まえて遊ぶいとこやおいたちがけがをしないよう見守っていた。
上空で爆音が聞こえ、すぐに敵の飛行機だと直感した。いとこたちに「急いで家に入れー」と叫んだ。次の瞬間、家の玄関にいた私は、爆風で吹き飛ばされた。家は崩壊し、気付いたら下敷きになっていた。運良く、倒れた木材の下のすき間に挟まり、抜け出すことができた。
「助けてー、助けてー」という声が聞こえた。家の中にいたおばたちだった。姿は見えず、声を頼りに崩れた家の中から捜し出した。いとこたちは井戸に隠れて無事だった。ただ一人、いちばん幼かったおいだけが見当たらない。
つい先ほどまで青々としていた木は見る影もなくなり、みんなで遊んでいた場所は信じられないほどに変わってしまっていた。
家のそばで見つけたおいは全身をやけどし、弱々しい声で私の名前を呼びながら泣いていた。
抱きかかえようとすると、皮膚がずるりとはげ、抱くことができなかった。「水ば飲ませて。水ば飲ませて」と必死に訴えられた。でも飲ませてあげることはできなかった。数時間後、おいは亡くなった。一滴も飲ませられなかったのが今でも残念でならない。
間もなく私も真っ黒い血を吐いた。しかし、兄も仕事でいなかったので、自分がしっかりしなければ、と我慢した。
夕方、飽の浦の実家に向かった。近くの川には、人間の姿とは思えない人たちが、うめき声をあげながら水を求めて顔をつけていた。道にはたくさんの遺体が倒れていた。しかし、その時ばかりは自分のことで必死だった。脇目も振らず、ただただ実家を目指して歩いた。
<私の願い>
長崎は原爆を経験した町だからこそ、強く平和を訴えていきたい。あのようなつらい体験を二度としないでいいよう、徹底的に平和な日本を追求してほしいと思う。そしてこの思いを風化させないためにも被爆者が経験を話し、若い人に語り継いでいくことが大切だと感じている。