当時二十二歳。銭座国民学校(銭座町)で教師をしていた。戦争が日に日に激しくなったため、児童は自宅待機。授業もなく教員の半数も近くの水田で米作りに従事していた。
あの日。朝から上空を飛んでいたB29も去り、職員室の入り口で一人、本を読んでいた。すると再びB29のエンジン音。「また来たな」と思っていると、飛行音が大きくなった。焼夷(しょうい)弾を落とされると思い、近くの床下防空壕(ごう)に慌てて飛び込んだ。壕の中が青色の光に包まれ、ドーンという大きな音。砂ぼこりで周囲が見えなくなった。幸い無傷だった。
砂ぼこりがおさまり、防空ずきんを持って外に出た。「何が起きたのか」と思い、近くにいた先輩教員と二人で学校の外へ出たが、目に映る光景にがくぜんとした。辺り一面が焼け野原。焼け倒された大木、奇妙に曲がった鉄筋。家は一軒もない。人々が弱々しく歩いている。髪は乱れ、衣服は焼けて垂れ下がり、体中から血を流している。たった一発の爆弾で、一瞬にしてこんな惨状になるなんて、何とも言えないむなしさだった。その日は、先輩と二人で矢上国民学校(矢上村)まで歩き、そこで一夜を過ごした。
翌日、三菱兵器製作所大橋工場で働いていた父を捜しに一人で市中心部へ戻った。町は散乱した物を片付ける人や肉親を捜し求める人であふれていた。積み上げた廃材の上で死体を焼く様子があちこちで見られ、牛や馬の死臭と混ざり合った独特のにおいが鼻を突く。黒焦げの死体から目を背け、鼻をつまみながら父を捜し歩いたが、見つからなかった。
父の捜索をあきらめ、二日間かけて小浜の実家に帰った。八月十二日の夕方、ついに小浜の家にたどり着いた。父がいた。私より一日早く帰って来たらしい。頭や腕にけがをしていたが元気だった。親せきが集まり、泣いて抱き合って無事を喜んだ。
<私の願い>
私の青春時代は、戦争の中にあった。苦しかった生活、耐え忍んだ日々-。戦争は絶対にあってはならない。世の移り変わりとともに、長崎の街並みは立派になった。人々は生き生きと暮らし、特に若者はファッションを楽しみ、美しくてうらやましい。こんな時代がいつまでも続いてほしい。