当時、私は九歳。緑町にあった自宅の縁側にいた。妹といとこの三人で、水を張った洗面器を囲み、赤いホオズキの種を出して遊んでいた。
一瞬、周囲が真っ白になった。傍らにいた妹の影が、家の中に飛び込むのが分かった。私は訳が分からなくなり、その場にぼうぜんとしていた。
気付けば目の前は真っ暗に。崩れた自宅のがれきの中に埋もれていた。上から差し込む光を目指し、無我夢中でよじ登った。がれきを抜け出すと、近所の家々がぺしゃんこになっていた。「ああ…」。無意識に声が出た。
家にいた祖母と、いとこは無事だった。しかし、妹の姿は見当たらなかった。何度も名前を呼び、がれきの下を捜したが返事はなかった。徐々に辺りから火の手が上がった。「逃げんと危なかぞ」。近所のおじさんに言われ、金比羅山に避難した。途中、体中やけどの人が何人も運ばれた。山の中腹に集まった親せきは、眼下の自宅に取り残された妹の名前を泣きながら叫んだ。街を覆う炎は一晩中続いた。
翌日、山を下り、自宅に戻った。妹を捜そうとしたが、家の焼け跡はまだ熱く、中に入れなかった。約一週間、近くの防空壕(ごう)で過ごし、私と母、祖母は上五島の親せきの家に身を移した。
結局、妹の遺体が見つかったのは、原爆が落とされた約一カ月後だった。母と祖母が長崎市へ戻り、自宅の焼け跡から妹の遺骨を見つけた。そこに、偶然、父が戦地から帰ってきた。
家の奥にいた妹は、空襲警報が鳴ったら持ち出すことにしていた救助袋を取りに行こうとして亡くなった。
父も上五島へ渡り、久しぶりに一家全員そろった。うれしかったが、骨となった妹を見ると胸が締め付けられた。
中学時代は福岡県で過ごした。転校を繰り返したため、なかなか友達ができなかった。同級生からは被爆者というだけで「ピカドン」というあだ名を付けられた。あの地獄の光景を思い出すのが、本当にいやだった。
長崎に戻り、あの日の体験を子どもたちに伝えるようになった。八月九日。妹の命日になると私は仏壇にホオズキを飾り、手を合わせている。
<私の願い>
海外では今も各地で戦争が続いている。日本が世界の平和運動を引っ張らなければならない立場にあるのに、今は、秋葉原の無差別殺傷事件など無意味な殺人が多すぎる。戦争を知らない世代へと移っていく中で、命の大切さや平和の意味をもう一度深く考える時が来ているのではないか。