当時私は十七歳。旧制中学を卒業後、両親や弟ら家族八人を長崎市内に残し、逓信省の出先機関である福岡市の西部防衛通信施設部の建築課で働いていた。
あの日、防空壕(ごう)を掘る現場の監督をしていた。昼前だった。ラジオから「長崎市民は総退避せよ」と聞こえてきた。「何が起こったのか」。全く事情が分からず庁舎に戻ると、上司から呼ばれた。「長崎に広島と同じような新型爆弾が落ちたみたいだ」と言う。「家族のことが心配だろう。すぐ戻りなさい」と気遣ってもらった。私は配慮に感謝しつつも何が起こったのか分からないまま夜行列車で長崎に向かった。
十日午前九時ごろ、道ノ尾駅に着き、母や弟たちが疎開していた時津に行って再会した。だが真ん中の弟二人がいない。長崎から駆け付けた父と一緒に二人の捜索に向かった。
西町から山を越えて油木町に下り、自宅があった五島町を目指した。松山町を通り掛かったとき、防空壕の入り口に黒く焼け焦げ、上半身が起きたまま亡くなった人がいた。建物はすべて倒れ、見えるはずのない長崎駅のほうまで見ることができた。五島町に着いたが自宅は焼けてしまっていた。弟たちの姿もない。
あちこちから子どもや大人の「お母さん」「おかあ」といううめき声がする。真夏の日差しが照り付けるなか、破裂した水道管から噴き出す水を飲み、近くの新興善小や西山の工場、諏訪神社のなかにあった防空壕など心当たりの場所を訪ねた。弟たちを見つけ出したい一心だった。だが、見つけることはできなかった。
次の日も父と二人で市内を捜し回ったが、見つからない。「もう駄目かもしれない」。父とそう話し、時津に戻った。母も泣いている。その時、弟たちが家に戻ってくるのが見えた。二人は通っていた中学の救護係だったため、学校でけが人の手当てをしていたのだという。元気な二人の姿に家族全員が安堵(あんど)した。
<私の願い>
平和を願うならこの世界からまず核兵器をなくすことが必要。そうしないと人類は安心して過ごせない。広島や長崎の惨劇を世界中の人が知らないから核兵器がいつまでたってもなくならないのだと思う。政府にも積極的に動いてほしい。