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私の被爆ノート

地獄を見ているよう

2008年6月5日 掲載
三田 良一(78) 三田 良一さん(78) 爆心地から1.2キロの茂里町で被爆 =西彼時津町左底郷=

当時十五歳。学徒報国隊として長崎市竹の久保町の鎮西学院内にあった三菱電機学校工場で航空機部品の生産に励んでいた。

爆心地から約五百メートルの城山町の叔母の家に下宿していた。その日は朝から警戒警報が発令され、自宅待機していた。叔母一家が前日から買い出しに出かけ、何も食べていなかったので我慢できなくなり、茂里町にあった父の事務所に向かった。原爆投下の四十分前だった。

父の事務所の入り口で、従業員の人と昼食の準備をしていたら突然、飛行機が上昇するような強い金属音が聞こえた。珍しく友軍機の音がしたと思い、空を見上げた瞬間、閃光(せんこう)が目の前を覆った。音はないが、空からは熱い砂のようなものが体にふりかかる。日ごろの訓練通り爆風よけに目と耳をふさぎ家の中に飛び込んだ。

一気に家が崩れ、建物の下敷きになった。次第に意識が薄れてきたが「ここで死んでたまるか」と頭の中に父母の顔を浮かべ、助けを求め叫んだ。力を振り絞り、外に出た時は目の前に黒煙がもくもくと上がり、茂里町兵器工場の鉄骨はアメのように曲がっていた。

家が倒壊し、道らしき道はなく、屋根の上を歩いて避難した。死人があちこちに横たわっていた。すれ違う人たちは、男女の別さえ分からないほどで、目だけが異常に白く光り、幽霊のようだった。救護所には、焼けただれて動けない人、瀕死(ひんし)の重傷者、力つきた人…。地獄を見ているようだった。

同級生五十八人のうち二十人余りが亡くなった。自宅待機の指示が出ても「お国のために」と工場で働いていた。仲間の無念さを考えると、生き残ったことを手放しで喜ぶことはできない。
<私の願い>
長崎は原爆を受けたところだからこそ、全国民の中でも特に強く平和を訴えていきたい。簡単に「平和」と言うのではなく、戦争で亡くなった人たちの思いをくみ取り、真の平和の意味を考えてほしい。

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