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私の被爆ノート

瀕死の同級生と一晩

2008年5月29日 掲載
大塚 和平(76) 大塚 和平さん(76) 爆心地から1キロの長崎市油木町で被爆 =長崎市小ケ倉町3丁目=

「大塚伏せろー」。振り向いたその瞬間、隣で旋盤を使い作業をしていた友人が叫んだ。目を突く閃光(せんこう)。押し寄せる爆風。二人とも折り重なるように倒れ込んだ。

どれくらいたったか。気付くと、作業をしていた雨天体操場は倒壊。友人と私は旋盤に倒れかかった梁(はり)が支えとなり、押しつぶされはしなかった。私は首の後ろから血が少し出た。

市立長崎商業学校二年の私は、校内で兵器の部品製造に当たっていた。午前十一時前のサイレンで近くの防空壕(ごう)へ向かい、解除警報で学校へ戻ったところだった。がれきをかき分け外へ出ると、景色は一変。ただあぜんとした。

立神の自宅へ一人で向かった。途中、同級生とばったり会った。同級生は「上村と同郷やろ」と言い、私を山手の防空壕へ連れて行った。そこには幼なじみの上村が瀕死(ひんし)で横たわっていた。声を掛けてもうなずくだけ。案内した同級生は立ち去り、日が暮れた。私は一晩を壕で過ごした。

ラッパの音で目覚めた。上村は息はあるが動かない。一人で壕を出て、助けを呼びに行くことにした。水を求め川に群がる人、黒焦げになった死体、爆風で飛ばされ電柱に引っ掛かっていた馬。この世の地獄を目の当たりにし、恐怖で震えた。

大波止から船で対岸へ。真っすぐに上村宅に行ったが、誰もいなかった。近所の人に上村の居場所を伝え、私はようやく帰宅した。かめにたまっていた水をひしゃくで二杯飲み干し、手足を洗い居間に転がった。安心感と疲れでそのまま寝込んだ。

目を開けると父が驚いた表情でこちらをのぞき込んでいた。上村のことを告げると、父は警防団員に伝え、明朝救出に向かった。上村は生きて家まで運ばれた。私も体調を壊し寝たきり状態になり、上村と顔を合わせることはなかった。上村は終戦直後亡くなった。
<私の願い>
戦争はどんなことがあっても起こしてはならない。欲があるから戦争が起こる。戦争に善と悪の区別はない。何事も話し合いで解決することが重要だ。今後、科学が進化し続ければ地球が滅びるのではないかと心配している。人間は、自然とともに生きることが大切だと思う。

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