私は十歳で、佐古国民学校に通っていた。朝から防空壕(ごう)に避難していたが、何事もなかったので母は昼食の準備のため先に十人町の自宅に戻った。私は残り、友達と遊んでいた。防空壕の入り口に寝転んでいると突然、閃光(せんこう)が目の前を覆った。まぶたを閉じていても辺りが真っ白に見えた。すぐに突風が襲い同時に、泥が体を覆った。
防空壕の上には負傷した兵士たちが療養する兵舎があった。その屋根がぺしゃんこにつぶれていた。「近くに爆弾が落ちた」。そう思い、自宅に走って帰った。家に向かう途中、どの家も崩壊していた。「一体いくつの爆弾が落とされたのだろう」。何が起きたのか理解できず、頭が混乱した。
自宅の窓も屋根も吹き飛んでいた。幸い、母は無事だった。高台にある自宅から県庁や浦上方向を見たが、真っ黒で何も見えなかった。辺りをきらきらと輝く火の粉が舞っていた。
「今夜は敵の焼夷(しょうい)弾攻撃があるぞ」とのうわさが流れ、急いで防空壕に戻った。防空壕の中はすぐに満杯になった。
翌日、全身にやけどを負った人が、戸板を担架代わりにして何人も運ばれてきた。顔は真っ黒で、服は破れて裸同然。全身の体の皮がただれ落ち、真っ赤な身がむき出しになっていた。そこで、前日の閃光が、たった一発の新型爆弾だったと知らされた。
造船所で働いていた父は、親せきと一緒に行方不明のいとこを捜し回った。いとこは、浦上川近くで亡くなっていた。遺体を親族で焼くのはつらかったが、誰もが同じ状況だった。
戦争が終わってからは、空腹との戦いが続いた。私は、母や兄と食べ物を求め、電車に乗って諫早まで出掛けた。農家を何軒も訪ね、母は着物を差し出して、イモなど食料をもらっていた。家に残る祖母や弟のために何か持って帰ろうと必死だった。
<私の願い>
子どもたちには平和教育を通じて、我慢強さや相手を思いやる優しさを学んでほしい。どんなことがあっても戦争をしてはいけない。武器を捨て、話し合いで解決するのが当たり前の世の中にしなければいけない。戦争は人間を狂わせることを、伝えることが大切だと思う。