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私の被爆ノート

「水を」無数の叫び声

2008年5月15日 掲載
坂本 亀良(79) 坂本 亀良さん(79) 爆心地から2キロの長崎市尾上町で被爆 =長崎市稲田町=

十六歳の私は両親を亡くし、四つ下の弟とおじの家族とともに丸山町に住んでいた。尾上町の国鉄診療所で受付などの事務として働き、旧制中学の夜間制に通っていた。

診療所内の薬を補充しようと、保管されている近くの防空壕(ごう)に入っていたその時、稲光のような閃光(せんこう)が壕の中に差し込んだ。何事かと驚きすぐさま外に出ると、すさまじい爆音がし、思わずしゃがみ込んだ。立ち上がり、辺りを見回すと駅前に並んでいた旅館が爆風で傾き、屋根がなくなっている。何が起こったのか全く分からなかった。

しばらくして、けがをした鉄道職員が次々に診療所に集まってきた。中には肩の肉がえぐられてぶら下がったままの男性もいた。やがて診療所にも火が燃え移った。「どうにもならん」と皆逃げ出した。

医師や看護婦らとともに現在の西彼長与町にある国鉄の長崎管理部を目指した。道路はがれきでふさがれていた。仕方なく小舟で浦上川を渡り、稲佐山に迂回(うかい)した。山から街を見渡すと、あちこちで火の手が上がり、建物が倒壊していた。

油木町に出ると、あちこちで人が倒れている。「水をくれ」と無数の叫び声が聞こえる。全身が焼けただれ、男性か女性かも区別が付かない人々。目が飛び出た少女が田んぼの中であおむけに倒れている。怖くなり下を向いて先を急いだ。

長引く戦争やこの爆撃に嫌気が差し、生きることをあきらめたのだろうか。けがをしていないのに逃げもせず横たわったままのお年寄りもいた。

その日の夜中、管理部に着き一泊。だが薬も食べ物もない。私は翌日長崎に戻った。田上の防空壕で避難していた弟やおじらと会い、無事を確認でき、ほっとした。

十数年後、原爆で亡くなった友人の母親と会った。「息子も生きていればこんな元気な姿だっただろうに」と涙ながらに言われ、いたたまれなかった。その話す姿が今でも忘れられない。
<私の願い>
核兵器が交渉の道具になっている。これではいつまでたっても平和な世の中は来ない。核兵器は絶対廃絶すべきだ。また義理、人情を持ち、思いやりを大切にする社会にならなければ平和にはならないと思う。

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