古賀ヤス子さん(87)
被爆当時13歳 長崎純心高等女学校2年 爆心地から1.8キロの長崎市大手1丁目で被爆

私の被爆ノート

全身やけど母に「誰」

2019年06月13日 掲載
古賀ヤス子さん(87) 被爆当時13歳 長崎純心高等女学校2年 爆心地から1.8キロの長崎市大手1丁目で被爆
  当時は空襲ばかりで勉強する時間もなかった。登校しても軍需品のさびを落とす作業をしていた。
 あの日は、三菱重工業長崎兵器製作所大橋工場に行くことになっていた。私は午後からだったので、午前中は昭和町の自宅に1人でいた。
 炊事場でお湯を沸かしていると、飛行機の音が聞こえた。今思えばB29だったのだろう。「バーン」と音がして、炊事場から2部屋先の居間まで7メートルほど吹き飛ばされた。しばらく気を失っていたようだ。気付いた時は、なぜ居間にいるのか分からなかった。とても幸運なことに無傷だった。
 両親は自宅下の田んぼにいて、全身をやけどしていた。母は正面から熱線を浴びたのか、とりわけ重傷だった。母と見分けが付かず、父に「その人は誰?」と聞くと「母ちゃんやかね」と答えた。
 どこを見渡しても家の上から煙が上がって、火の海だった。空も真っ黒で、昼のはずなのに、もう夜になったのかと思った。何が起きたのか全く分からなかった。
 隣に住んでいたいとこ2人と、母と一緒に1時間ほど歩いて裏山の防空壕(ごう)に逃げた。到着すると、母は子どもたちを無事に避難させて安心したのか、へたばってしまった。近所のおじさんたちが母を戸板に載せて運び、一緒に家に連れ帰ってくれた。
 2番目の姉の夫は、浦上天主堂の近くにあった病院に行っていた。身長180センチぐらいで体格がよかったので、黒焦げになって死んでいる人たちの中で1番大きい遺体を、親戚と近所の人たちが持って帰ってきた。遺体は座っている姿勢のままで、頭がなかった。
 翌日登校すると、前日の午前中に同級生が作業をしていた大橋工場に、先生が連れて行ってくれた。機械のそばでたくさん人が死んでいた。白骨になっていて誰が誰なのか分からず、ただ泣いて手を合わせることしかできなかった。その情景を思い出すと、今でも恐ろしくて頭がじんじんする。
 原爆投下の数日後、矢上の親戚の家に弟と2人で避難した。8月18日、近所の人が「お母さんが危ない」と連れに来た。急いで帰ったが母は亡くなっていた。それでも悲しむ心の余裕もなかった。周囲も同じような境遇の人が多く、自分だけめそめそしていられなかった。

<私の願い>

 戦争はもう嫌。原爆は「魔物」だ。たくさんの罪のない人、そして一度も病気したことがない母がたった1発の爆弾に殺された。世界中にある核兵器は絶対に使わないでほしい。みんなが平等で静かに暮らせる世の中になることを願う。

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