当時、旧制長崎市立高等女学校の三年生だった私は毎日、体育館を改造した工場で魚雷の部品などを作っていた。あの日も同級生らとともに、指導員の監視の中、黙々と作業にあたっていた。
作業中、急に外がパッと明るくなり、指導員が「伏せろ」と叫んだ。慌てて作業台の下に潜り込むとゴーという爆風の後、メリメリ、パリンパリンと壁がきしむ音やガラスが割れる音が頭上で響いた。怖くてずっとそのまましゃがみ込んでいた。
どれくらいの時間、伏せていたのかは分からない。しばらくして指導員の声がした。頭を上げると窓際の人たちが血を流してけがをしていた。学校裏の防空壕(ごう)に移動してみんなで隠れていた。
夕方になって、各作業場を巡回していた監督官が血だらけで姿を見せ、つぶやく。「浦上が火の海だ」。学校があった桜馬場地区は無事だったようで、多くの人が避難してきた。「浦上にはもう二度と草も生えない」「人が人じゃない、地獄だ」など、みんなが口々に浦上地区の惨劇を語る。とても怖くなって、中川町の自宅に急いだ。
家路の途中、恐怖心につぶされそうになりながらふと目を上げると、今までに見たこともないような美しい夕日が空にあった。あかね色の大きな太陽が照らしている下に、地獄絵図が広がっているとは考えたくなかった。それはとても奇麗で、しばらく見入っていた。
家に着くと両親もきょうだいもみんな無事で涙を流して喜んだ。数日が過ぎたが、怖くて浦上方面に足を運ぶことはなかった。八月十五日、終戦の知らせを聞いたときは心底ほっとした。
それからは、いつか原爆症が発病するのではないかという、不安の連続だった。六十年以上がたった今でも「今年も八月九日まで生きられた」と、不安と恐怖は消えない。ただ、あの日見たさんさんと輝く太陽より、美しい夕日には出合っていない。あの太陽は、愚かな戦争を反省し、曇った心を洗い流しなさいと自然が訓示していたのかもしれない。
(松浦)
<私の願い>
戦争でみんなが幸せになることはない。原爆を「終戦の道具」と考える人もいるようだが、一発で何万人もの命を奪う兵器は絶対に許されない。一人一人が平和の意味を考えて、友人を大切にするなど身近なところから始めてほしい。