当時十五歳。長崎市内の竹の久保から、時津の日並に疎開していたため、二時間ほど歩き、学徒動員先の三菱長崎兵器製作所の住吉トンネル工場に通っていた。
八月九日は、朝から体調が悪かったが、「くじけちゃならない勝つまでは」という戦意高揚の標語が染み付いていたため、何度も道にしゃがみながら、ようやく出勤した。
工場内は、縦に数本掘られたトンネルに工作機械が置かれ、天井にはトタン板が張り巡らせてあった。私はトンネルとトンネルを横に結ぶ通路で、経理の仕事をしていた。いつもなら、十一時ごろはトイレ休憩で、友人と外に出る時間だったが、あの日は仕事にならず、ずっと工場の岩壁にもたれ、うずくまっていた。
突然「メリメリ」「ゴォーッ」と、鼓膜が破れたんじゃないかと思うくらいの爆音と、耳がちぎれそうな風が吹いた。気付いたら工場内は真っ暗。動いているはずの機械の音も聞こえない。天井のトタン板は落ちていた。
何時ごろかは定かではないが、四つんばいでトンネルの外に出た。工場の周囲にあった建物はつぶれ、大橋方面は真っ黒い煙がもうもうと上がっていた。
朝鮮半島の人たちは、上半身裸で土砂を運搬していたのだろう。体に大きな水泡がいくつも垂れ下がり、四つんばいで「アイゴー、アイゴー」と泣いていた。
衣服がぼろぼろになった人や、血みどろになった人など大橋方面から来る人はみな弱々しい足取り。女子学徒の一人は「私はもう駄目。あんたたち先に行って」と、私の目の前でうずくまり、動かなくなった。私はどうすることもできず、ただ立ち尽くしていた。
しばらくして、竹の久保に住んでいた知人が「助けて」と声を掛けてきた。赤ん坊を背負い、顔は真っ黒。ここまで来る途中で、真っ黒になった電車や馬、人の死体があちこちに転がっていたという。その日は知人と時津に帰った。知人は翌日、実家のある三重に帰ったが、数年後に亡くなった。赤ちゃんも中学生ぐらいで亡くなった。私のいとこも学徒動員で被爆。父親が何度も捜したが、遺骨は見つからなかった。
<私の願い>
諫早を中心に小学校からの要請を受け、被爆体験の講話を続けている。戦争がもたらした悲劇が原爆の投下。二度と繰り返してはならない。子どもたちに体験を伝え、平和を考える一助になればと願っている。