当時旧制中学の二年だった私は、いつも通り朝から学校へ向かった。到着後間もなく、警戒警報が鳴ったため、稲佐町にある自宅に帰宅したが、今度は空襲警報が鳴り、近くの防空壕(ごう)へ逃げ込んだ。空襲警報解除後、家に戻り、三歳の妹と近所の子二人の子守をしていた。
十一時二分。母親の呼び声で、縁側から家の外に出た時だった。「ピカッ」。室内で遊んでいた妹たちに向かって「伏せろ」と叫んだ。同時に自分は家の中に飛び込んだ。
それ以後は全く覚えていない。気を失っていた。どうやら倒壊した家の下敷きになっていたようだ。父親が泣き叫ぶ妹らを助けに家の中に入り、私の背中の上に重なっていた材木を踏みつけたことで意識を取り戻した。頭にこぶができた程度で大きなけがはなく、かすかに光が差し込む方へ、のしかかっていた材木や土壁などを押しのけながらはい出た。
はい出た後も土煙のため、視界は閉ざされていた。自宅のすぐ近くの小さな横穴に行き、両親と合流。横穴に事前に入れていた服を着て、近くの防空壕へ避難した。
防空壕付近に、真夏にもかかわらず丹前を着た女性。うずくまって「寒い、寒い」と言って震えていた。「危ないから、防空壕に入ろう」。声を掛け女性の手を握った。「ズルリ」。皮膚がはがれ、手は赤色に変わった。皮は指の先からダランと垂れ下がり、思わず手を放し、逃げるように防空壕に入った。
避難した防空壕の前は、三菱長崎造船所稲佐製材工場。いつの間にか工場から火の手が上がり、防空壕からも逃げだし、淵神社の裏手にある水無川の中に移動して、そこで二晩過ごした。
原爆投下から三日目の夕方、父の実家のある西彼三重村(当時)へ行くことに。通り道の浦上地区は焼け野原。川にはおびただしい数の死体。あまりの惨状にただぼうぜんとした。そこら中に転がっている死体につまずかないよう注意しながら、三歳の妹を背負い、ただただ歩いた。
到着したのは翌朝。眠くて眠くて、着替えだけ済ませ畳で眠った。昼前に起こされ、芋ご飯を食べた。ようやく生きていることを実感できた。
<私の願い>
核兵器は、罪のない民間人を無差別に殺してしまう恐ろしい兵器。世界からなくさなければならない。そのためには、国連が主体となって、核製造に対する監視態勢を強化することが大切だ。理想としては、国と国とが友好関係を深め、最終的に国境を取り払うことが、戦争をなくし核兵器廃絶につながると思う。