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私の被爆ノート

父が背負ったつめ跡

2008年4月10日 掲載
坂巻 毅治(75) 坂巻 毅治さん(75) 爆心地から3キロの伊勢町の自宅で被爆 =長崎市伊勢町=

当時十二歳。その日は朝から、母や妹四人と伊良林地区の山中にある防空壕(ごう)にいた。前日に警戒警報が出され避難していた。何事もなく胸をなで下ろし、腹をすかせた妹のために自宅の庭に植えているイチジクの実を持ってこようと一人で山を下りた。

庭の木に登り、実を採っている時、太陽の光を浴びながら青空をキラキラと流れる銀色の飛行機が二機見えた。「警報が鳴らない。おかしいな…」。疑問を感じながら家の中に戻った時だった。一瞬の閃光(せんこう)のあと、「ドーン」という衝撃波が辺りを突き抜けた。目の前が真っ暗になった。

気付けば家のガラスが割れ、戸や壁が吹き飛んでいた。近所の人が混乱し、叫んでいる声がした。母や妹が気になり、急いで防空壕に戻った。その途中、山の下を見下ろすと市街地にいくつもの火柱が見えた。青空が、いつの間にかどす黒い雲に覆われていた。

防空壕で母から聞いた。「お父さんが大けがをした。命が危ない」。銀行員だった父は、長崎要塞(ようさい)司令部に徴用されていた。軍の仕事で爆心地に近い宝町にいた父は、原子爆弾が投下された時、突然上半身が燃え上がり大やけどを負った。

本興善町の救護所で横たわる父と会った。父は目と鼻を残し、頭から体まで布をまかれていた。その後、父は佐賀県の陸軍病院に移された。父のほかに八人の重傷を負った人が搬送されたが、父だけが奇跡的に命を取り留めた。父は秋に退院し、家に帰ってきたが、その姿はまるで別人だった。顔や腕、体の全面に生々しいケロイドの傷あとが残っていた。

父は戦後も後遺症に悩まされ、銀行員の職を失った。それでも、家で療養しながら保険の代理店を始め、必死に働いたが、家族を養うのは困難だった。家や衣類など売れる物は何でも売った。一番末の妹は二歳の時、やむなく養女に出された。母は一晩中すすり泣いていた。

父は原爆症に苦しみながら五十六歳で亡くなった。遺体には無数の紫色の斑点があった。それを見て、父が背負った戦争のつめ跡の深さを、あらためて思い知らされた。
<私の願い>
戦後、私は教師となり平和教育に携わってきたが、平和学習は日常的に必要だと思う。人々が平和を学び、それをまた多くの人に伝えることが、世界に平和を発信する力になる。長崎が世界への発信地となってほしい。戦争をしない、核を使わせない世界は必ず実現できると信じている。

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