当時私は十八歳。長崎市茂木町に両親と姉や弟らの八人で住んでいた。父は漁師、母は取れた魚を売り歩く行商をしており、私は家事の手伝いをしていた。
あの日私は、昼が近かったので、食事の準備のため、外の水道で水をくんでいた。その時だった。突然、稲光のような激しい閃光(せんこう)が辺りに走った。恐ろしくなって慌てて家の中に逃げ込んだ。次の瞬間、激しい爆発音。ものすごい爆風が吹いてきた。家の窓ガラスは全部割れた。「何が起こったのだろうか」。妹と話し合っていた。窓の外を見ると、空一面に広がる大きなきのこ雲があった。
昼すぎだった。地元の婦人会のおばさんが家を訪ねてきて「中心部のほうで大きな爆弾が落ちたらしい。けが人が運ばれてくるから、救護の手伝いに出てほしい」と言われた。近くの海岸にある料亭が急きょ、救護所になることが決まった。夕方ごろから、三輪車や台車に乗せられたけが人が次々と運ばれてきた。
けが人は大人も子どももいた。中には全身やけどで、頭から足の指先まで皮がはがれ、肉がむき出しになっている男性もいた。婦人会会長や近くの病院の先生の指導で、けが人に消毒液を塗り、包帯を巻く治療をした。夏場だったので時間がたつと、うじ虫がわいてくる。その一つ一つを割りばしで取った。
全身が焼けただれた中年くらいの男性が「水をくれ。水をくれ」と袖にしがみついてくる。先生たちからは「水を与えたら安心して死んでしまうので与えてはいけない」と言われていた。しかし、苦しそうな表情を浮かべて懇願してくる。目をつぶったままだが、袖をつかんだまま手を離さない。私は「この人の最期のお願いなのだろう」と思い、苦しそうな男性を前に、どうしても断ることができず、水を与えた。男性はしばらくすると、手を胸の前に組み、安らかな顔をして息を引き取った。
被爆直後から約二十日間、七十八人のけが人の治療に当たった。しかし、そのほとんどが死んでしまった。
<私の願い>
救護した体験を思い出すと、今でも胸が痛くなる。たくさんの人を苦しい目に遭わせた原爆がとても憎い。二度と戦争が起こらぬよう、また原爆が落とされぬように願っている。それが生涯一つの願いだ。