当時、旧日本陸軍の兵隊で大村の部隊にいた。八月九日は、公用のため上官と汽車で長崎市へ向かっていた。途中、空襲で喜々津(現在の諫早市多良見町)のトンネルでしばらく足止めされた。
空襲警報解除とともに走りだし、長与駅に止まった。その瞬間、「バッ」と真っ黒な煙が上がり、少し遅れてすさまじい爆風に襲われた。飛び散った窓ガラスで上官は腕を負傷。汽車を降りると、乗り合わせた三十歳前後の女性が「兵隊さん、私もご一緒させてください」と追い掛けてきた。三人で近くのやぶに逃げ込んだ。
女性は広島でも被爆していたらしく、「これはアメリカの新爆弾。すごい破壊力がある」と言っていた。女性の救護袋から赤チンを借りて上官の傷に塗った。
任務を果たすため、すぐにやぶを出て上官と線路沿いに長崎市中心部を目指した。道ノ尾駅付近まで行くと、市内の方から逃げてくる多くの人とすれ違った。ひどいやけどや頭からの出血、軍歌を歌いながら歩く人など異様な雰囲気だった。
大橋町付近まで来ると、被害の大きさに言葉を失った。精米中の女性が立ったまま死んでいた。至る所に遺体があった。男女の区別もつかないくらい黒く焼けた人たちが虫の息で「助けて」と言っていたが、どうすることもできなかった。
銭座町付近で駅員の制服を着た男性に「子どもをがれきの下から助けて」と頼まれた。近づくと幼い子の声が聞こえた。がれきが崩れないように丸太ん棒で支えながら自分の体をすき間に滑り込ませ、助け出した。幸いにも軽傷だった。
公用を済ませ、夜は市内の友人宅に宿泊。翌朝五時ごろ出発した。列車は道ノ尾駅から出ていた。車内は重傷者が多く、目の前の男性は黄色いものを吐いて死んだ。駅で停車するたびにいくつもの遺体が降ろされた光景を覚えている。
自分は無傷と思っていたが、被爆した夏から全身がひどいあせものように赤くなり、激しいかゆみに襲われた。その症状は今も続いている。
(佐世保)
<私の願い>
原爆投下直後の長崎はまさに地獄絵だった。あんな惨劇は広島、長崎だけでたくさん。世界のどこにも絶対に原爆を使ってはいけない。周りの国と仲良くし、何かあっても話し合いで解決していけるはずだ。