当時六歳。県に勤めていた父の転勤で、諫早に家族八人で住み、私は北諫早国民学校に通っていた。
あの日、父は仕事で朝から県庁に出張していた。空襲警報の発令や解除のサイレンが繰り返してあったため、母親や兄弟、近所の人と一緒に家の近くの防空壕(ごう)の中にいた。私は入り口の方にいて、壕の中から時折、外を眺めていた。
そうこうしているうちに、黄色い閃光(せんこう)を感じた。今思うとそれが原爆だったのだと思う。形容しがたい不思議な光だった。
その後、昼というのに辺り一面が薄暗くなった。しばらくして長崎に新型爆弾が落ち、県庁が焼け落ちたことを母が伝え聞いてきた。父は夜になっても帰ってこなかった。
翌日、父の消息が心配で、母は私たちを連れて列車で長崎へ向かった。列車は道ノ尾駅止まりで、そこで下車して線路沿いに長崎駅方面へ歩いた。
市内に進むにつれ、何とも言えない悪臭が強くなってきた。道すがら、腹が風船のように膨らんだ馬の死骸(しがい)や声を張り上げ肉親を捜す人などを見た。やけどを負った人から「水をください」と声を掛けられたが、どうすることもできず、母が「すみません」と頭を下げていた。
今の松山町あたりまで歩いたが、「先には進めない」と道ノ尾に引き返した。辺り一面灰色で、真っ黒く焦げた人の死体をいくつも見た。皆うつぶせに倒れていた。ただ恐ろしかった。「この状態なら父も生きていないかもしれない」と思うと心配でたまらなかった。元気に戻ってくることだけを願った。当時を思い出すと、今でも食事がのどを通らなくなる。
父は十二日ごろ、自宅に戻ってきた。水の浦町の親せき宅に世話になっていたという。父親によると、水の浦町の訪問先の縁側で原爆に遭い、気づいたときは家の中に吹き飛ばされていたそうだ。
<私の願い>
憲法九条を守るために、署名活動に取り組んでいる。「世界の情勢はそんなに甘くない」と指摘されることがあった。しかし、地道な署名活動を通じ、平和な世界を求める努力を続けなくてはならないと強く思っている。高校生の一万人署名活動には一人の被爆者として頼もしく思う。