平野 正利
平野 正利(76)
平野 正利さん(76) 爆心地から1.8キロの東北郷(若葉町)で被爆 =長崎市中園町=

私の被爆ノート

消えた弟らの絶叫

2008年3月13日 掲載
平野 正利
平野 正利(76) 平野 正利さん(76) 爆心地から1.8キロの東北郷(若葉町)で被爆 =長崎市中園町=

当時旧制中学二年で十三歳。家族十一人で暮らしていた。八月九日は、午前から警戒警報が発令していたため登校を控えた。自宅横にある簡素なつくりの車庫内にあるトラックの荷台の上で、一人で遊んでいた。

突然、「ピカッピカッ」と、目の上の方に花火がはじけるような光が見えた。直後に「ドーン」という大きな音。すぐさま両手で耳と目を押さえた。爆風被害の対処法として、学校で常日ごろから教えられていたからだ。爆風で、七、八メートル吹き飛ばされたが軽いやけどだけですんだ。

しばらくして立ち上がり、辺りを見回すと車庫は全壊していた。電柱、家屋、樹木などすべてが倒れたり、つぶれたりしていた。何が起きたのか理解できなかった。

車庫隣にある自宅に目を向けると、倒壊した自宅。家の中にいた弟二人と妹が必死に助けを呼んでいた。

学徒動員のため、三菱兵器製作所大橋工場で働いていた兄が走って帰ってきた。近所にあった防空壕(ごう)付近にいた母も戻ってきた。三人で協力して、倒壊した家屋から弟たちを助け出そうと、懸命に柱などをどかそうとしたが、何の道具もなくかなわなかった。

倒壊した家屋に火の手が上がった。弟らは煙で「苦しい、苦しい」と絶叫した。「待ってろよ」と答えたがどうすることもできなかった。そのうち、助けを呼ぶ声は消えた。燃え上がる火の中に、いつも身につけていたお守りを投げ込んだ。

仕事の都合で時津町にいた父は夕方戻った。ただぼうぜんとしていた。

九日以降、時津町の親せき宅にしばらく住んでいた。終戦後のある日、父と兄と一緒に自宅跡まで戻り、片付けなどをしていると、進駐軍が車に乗って近くを通りかかった。

周囲の人たちは、山手の方に逃げていったが、父が「バタバタするな。逃げんでもよか」と言ったので、逃げることはしなかった。

すると、こちらに気付いた米軍人が、私たちに向かって手招きをした。兄と二人で近くに行くと、チョコレートやチューインガム、バター、たばこなどをくれた。
<私の願い>
戦後の日本が、軍国主義の道から転換したという意味で、無条件降伏して良かったのではないか。軍閥が残っていては、今の日本の発展はなかった。ただ、自衛隊の海外派遣については理解する。自衛隊員が、直接銃を持って戦うわけではなく、道路や橋などの建設、整備に従事しているからだ。こうした活動は、いつか国際的に評価を受けるだろう。

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