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私の被爆ノート

死者焼く音を聞く

2008年3月6日 掲載
松尾 久枝(68) 松尾 久枝さん(68) 爆心地から3.6キロの矢の平町(当時)で被爆 =長崎市矢の平3丁目=

原爆投下前は、警戒警報や空襲警報が発令されるたびに、目と耳を押さえて地面に伏せたり、防空壕(ごう)に避難したりと、おびえっぱなしだった。車のエンジン音が聞こえただけで、びくっとしていたものだった。

ある夕方、矢の平町の実家の玄関前で、おけにお湯をためて体を洗ってもらっていると、B29が山すれすれの高さで飛んで来たのが見え、裸のまま抱きかかえられて壕に避難したこともあった。

八月九日午前。庭で二つ年下の弟と遊んでいると、近くに住んでいた叔母が近所に回覧板を渡しに行こうとしていた。弟が「ついて行く」と泣いたので、遊び場所を近くの防火用水に変え、そこで水を手でぴちゃぴちゃさせて、遊ばせていた。

十一時二分。閃光(せんこう)や爆音があったのか覚えていないが、空が真っ黒になり、爆風が来た。家にいた姉三人のうちの一人が、慌てて迎えに来た。弟を連れて先に家に戻ったので、私は泣きながら後を追った。

家に戻ると、畳やふすまがはがれてぐちゃぐちゃになっており、何が起きたのか分からなかった。姉たちと押し入れの中に避難している時、当時一歳の一番下の弟の泣き声が家の中に響いた。弟を見つけた姉たちは最初「頭がない」と慌てていた。爆風のせいと思うが、弟はふすまの格子状になった桟に頭を突っ込んだ状態で見つかった。幸い、無事だった。

母は家から少し離れた畑で野菜を採っていたが、やぶの下に隠れて無事だった。翌日は家から歩いて五分ほどの、現在の市立伊良林小に運ばれてくる負傷者の救護に当たった。黒焦げの人が並んだ講堂は足の踏み場もなく、皆「水をくれ」とうめいていたという。母は「あんなのは見たくなかった」と話していた。

夕方になると、同小から「ポン、ポン」と何かがはじける音が聞こえてきた。姉が「人間ば燃やして、おなかのはじけよっとよ」と教えてくれた。

数日後、近所の二十歳前後の女性が、遺体となって自宅に運ばれた。兵器工場で働いており、わずかに肌に残っていたもんぺの柄を頼りに、家族が見つけてきたという。私も遺体を見たが、全身真っ黒焦げで膨れており、妙に巨大に感じた。
<私の願い>
終戦を告げる天皇のラジオ放送を聞いた時は、みんなで「戦争が終わった」と喜び、ほっとしたものだった。苦しい生活と恐怖。戦争にいいことは一つもない。あんな思いを、孫たちには絶対に味わわせたくない。

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