当時、長崎師範学校の予科二年生、十六歳だった。全寮制という厳しい規律の中で、小学校教師を目指していたが、学徒動員のため、三菱兵器製作所精密工場で人間魚雷の心臓部を製作していた。
八月九日。十二時間の夜勤を終え、早朝、家野町にあった学生寮に帰り、寝床に入った。それから、どれくらいの時間がたっただろう。「ピカー、パーン」。青白い閃光(せんこう)が突如光り、「ドーン、ドド」の大音響とともに床が崩れ落ちた。何が起きたのか。混乱と動転で判断できなかったが、戦闘機が旋回する音でわれに返った。「逃げんば。お父さん、お母さん」と助けを呼んだ。
建物は破壊され、窓ガラスは粉々に飛び散っていた。縄ばしごで地上に降り、農場横の防空壕(ごう)へ一目散に逃げた。体中にガラス片が突き刺さっていたが、不思議と痛みは感じなかった。
八月の太陽は真っ黒な雲に遮られ、さながら夕暮れ時のようだった。壕は多くの負傷者が収容されていた。うめきながら水を求め、はいつくばる人。体がパンパンに腫れ上がっている人。顔も変形して誰なのか判別できなかった。
教官の「歩ける者は長与へ行け」の号令で、住吉から道ノ尾を経て、長与国民学校講堂を目指した。さながら地獄絵図のようだった。道端には遺体の列。その中から肉親を見つけ、泣き叫ぶ人々。絶望的な風景が広がっていた。見知らぬ婦人から「大変でしょ。これば履いて行かんね」と草履を差し出され、感謝し涙した。
数日後、「新型爆弾罹災者証」を手に列車に乗った。最終列車で北松佐々町の佐々駅に到着。生家の世知原を目指し、一人で歩いた。まるで夢遊病者のように。身も心もボロボロだった。午前零時ごろだったか。生家は明かりがついていた。母の姿を見たとき、「生きて帰れた」と、その場で崩れ落ちた。
原爆が投下されてから六十三年目を迎えた。生き返った多くの仲間も鬼籍に入った。私自身も年を重ね、細かい記憶は次第に薄れつつある。だが、つぶさに見た惨劇だけは頭から離れない。
<私の願い>
戦後六十三年がたつというのに、世界各地で民族紛争が突発。平和への願いを無視した核実験が繰り返されている。本県が最後の被爆国となるよう、さらに強く、具体的に核実験中止を全世界にアピールしなければならない。だが、「戦争を知る人」より「知らぬ人」がはるかに多くなった。現にある平和と自由は、尊い犠牲の上にあることを若い世代に伝えていかなければ。あの痛ましい悲劇を再び起こさないためにも…。