栗原千鶴子
栗原千鶴子(82)
栗原千鶴子さん(82) 爆心地から5.4キロの戸町2丁目で被爆 =長崎市大黒町=

私の被爆ノート

友人奪い、とても憎い

2008年2月21日 掲載
栗原千鶴子
栗原千鶴子(82) 栗原千鶴子さん(82) 爆心地から5.4キロの戸町2丁目で被爆 =長崎市大黒町=

当時、私は十九歳。長崎市三重町の実家を離れ、小学校の同級生や先輩らと土木会社に就職していた。社員寮が今の上戸町付近にあり、二、三十人が住む長屋で、同僚や雇われた韓国人らと一緒に住んでいた。

八月九日。当時、会社は対岸の立神の山で、大きな穴を掘る工事をしていた。三菱の工場で作っている機械を空襲などから守るためだった。私は現場の作業員の人数を記録する「帳付け」の仕事を担当しており、作業員と一緒に船で現場に通っていた。午前十時五十分ごろ、いつものように工事現場に向かうため、会社の近くの港から、若い韓国人男性五人と一緒に小舟に乗り込んだ。

その直後、辺り一面にピカッと閃光(せんこう)が走った。まぶしくて思わず目を閉じた。次の瞬間、「ドーンッ」と耳をつんざくようなすさまじい音。恐怖から韓国人の男性たちは一斉に海に飛び込んだ。爆風で舟が転覆しそうになったが、私は会社の書類を抱いたまま、舟にうつぶせになった。あまりの大きな音に、すぐ近くに爆弾が落ちたと思った。しばらくして、そっと起きあがり、市内中心部の方に目を向けると、真っ黒な煙がもくもくと上がっている。大変なことが起きてしまったと感じた。

私は「また大きな爆弾が落とされるかもしれない」という恐怖に震えながら寮に戻り、一目散に防空壕(ごう)に入った。同級生たちの大半はそれぞれの実家に戻るため、寮を去った。しかし、私は何人かの同僚たちと残り、そのまま三日間ほど壕の中で暮らした。とにかく怖かった。

数日後に三重町の実家に戻り、両親の安否を確認した。妹や弟たちもけがはなく、安心した。被爆直後に実家に戻っていった同級生たちは、放射能をたくさん浴びたせいか、五十-六十代でほとんどが亡くなってしまった。中には仲の良かった友人もいた。それを奪った原爆がとても憎い。
<私の願い>
戦争も核兵器も絶対に反対。戦争を指揮する人が真っ先に戦場に行くべきだ。人種や信条にかかわらず、一人の人間を大切にしなければならない。それが日本、世界の平和につながると思う。

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