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私の被爆ノート

日が暮れ黒い雨降る

2008年2月14日 掲載
森崎 斡(74) 森崎 斡さん(74) 爆心地から4.5キロの愛宕町(現愛宕2丁目付近)で被爆 =長崎市西山台2丁目=

当時十一歳で小島国民学校の六年生。愛宕町の交番近くに家族十人で住んでいた。

あの日は、朝から下級生たちと交番に集まり、勉強会をしていた。上級生が下級生に教える「自習」のような勉強会だった。勉強会を早めに切り上げ五、六人の友達と、交番の外で遊んでいたとき、ゴーンと飛行機の音が聞こえた。

当時、学校の授業で飛行機の飛行音を聞かされていた。「B29だ」と思い、空を見ると銀色の飛行機が飛んでいた。

飛行機を目で追っていると、白い二つの落下傘が、落ちているのが見えた。「操縦士が落下傘で飛行機から逃げよる。あの飛行機は落ちるばい」と叫んだ。落下傘が愛宕山の向こうに隠れた後、ピカッと周囲が一気に明るくなった。

その後、地鳴りのような振動と爆風。すぐそばに爆弾が落ちたのかと思い、遊んでいた子どもたち全員が私の自宅に逃げ込んだ。家の中の家具は倒れ、物が散らばった状態。窓を開け放っていたせいか、ガラスは割れておらず、母親がみんなに布団をかぶせ、しばらくその中で縮こまっていた。

しばらくして、近くの防空壕(ごう)に逃げた。壕の中では大人が「新型爆弾だろう」と話していた。

爆弾が落ちて四、五時間ぐらい後だったか、荷台に、むしろをかぶせた大八車が茂木の方へ上っていた。よく見ると、負傷者を運んでいた。むしろの間から焼けただれた赤黒い皮膚が見えた。大人から「やけどをした人からうつるぞ、壕に戻れ」と注意された。子どもには見せたくなかったのだろう。

家族は、川南造船に勤めていた上から二番目の姉が足にけがをして帰ってきた。父はいとこの姉妹を大橋の兵器工場に捜しに行き、帰ってきたという。

いとこは二人ともたいしたけがもなく、無事だったが、姉の方は三日ほど後から髪の毛が抜け、一週間ほどで亡くなった。いとこを捜しに行った父も一九五〇年に胃がんで亡くなった。

あの日、日が暮れてから雨が降ったが、水が濁っていた。今思うと、あれが「黒い雨」といわれるものだったのだろう。
<私の願い>
平和を願う長崎で銃犯罪が相次ぎ残念だ。アメリカは銃で身を守る銃社会。銃社会が拡大したのが核兵器で、核保有国は「防衛」などを理由に保有を正当化している。「核は絶対安全」という保証はない。「核と人間は共存できない」と強く訴えたい。

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