長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

神経まひして恐怖覚えず

2008年2月7日 掲載
上田 享(76) 上田 享さん(76) 爆心地から2.5キロの西上町(当時)で被 =長崎市横尾1丁目=

旧制長崎中の二年生だった。学校は部品工場となり、鉄を削る作業に従事していた。八月九日も始業時間の正午に合わせ、午前十一時すぎに上筑後町(当時)の自宅を出るつもりだった。その直前にラジオで「島原方向から敵機が来る」と知ったため、警報が出れば登校せずに済むと思い、玄関前で待った。そのとき、B29がラジオゾンデ(爆圧等計測器)と思われる落下傘を落とし、それが浦上方面にゆっくりと落ちていくのを目撃した。

途端に視界が真っ黄色になり、目の前で爆弾が落ちたと錯覚。きびすを返し、家に飛び込んで伏せた。大きく揺れ、荷物やガラスなど何もかもが落ちてきた。揺れが収まった後に立って見上げると、青空があった。屋根も吹き飛び、柱しか残っていなかった。

家の中にいた弟二人、妹一人と、畑仕事をしていた母は無事だった。みんなで長崎駅方向へ逃げて防空壕(ごう)に入った。煙が壕に入ってきたので外を眺めると、建物は何も見えず、空は真っ黒。「こりゃたまらん」と抜け出て、道に落ちていた夏布団を防火用水に浸し、体にくるんで、煙がない寺町方面に向かった。母は腰が抜けて四つんばいの状態。自分もがくがくしていたがこらえ、母親たちを引っ張った。

別の壕に着くと、全身焼けただれた人たちもやってきた。血のにおいが漂い、「水、水」とうめき声が響く中で一夜を過ごした。うめき声は次第に弱まり、翌朝には大勢が死んでいた。当初はいろんな光景に驚いたが、何も感じなくなっていた。そのたびに驚いていては生きていけなかった。

その後、上筑後町の自宅に戻ったが生活できずに近くの壕で過ごし、配給されたおにぎりで命をつないだ。無事だった父、姉とも合流し、十二日に時津町の父の生家へ出発。家財道具を積んだリヤカーを引いて歩いた。浦上駅前では親子の焼死体、松山町付近では黒焦げの遺体を見た。神経がまひしていたからだろう。恐怖は覚えなかった。

少なくとも一カ月は父の生家で過ごした。この間も家財を運んだり、様子を知るため市内に入った。ただ、もう神経は正常だった。腐乱死体を焼くときの強烈な腐臭が忘れられない。本当に地獄だった。
<私の願い>
この十数年は、戦争の無意味さと壮絶さを伝えようとボランティアで碑巡りのガイドをしている。子どもたちには、多くの犠牲の上に今の平和が成り立っていることを実感してもらいたい。そして核廃絶の実現を願っている。

ページ上部へ