長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

兄を捜し焦土を奔走

2008年1月31日 掲載
神永 正数(78) 神永 正数さん(78) 爆心地から4キロの松ケ枝町(当時)で被爆 =西彼長与町平木場郷=

日本通運の車両工場の特約店である松ケ枝町の小さな自動車工場で、兄と働いていた。かつては数十人が働いていたが、みんな戦争に召集されてしまい、十五歳の私と二つ年上の兄だけが残った。

隣の木工場に注文していた木づちが完成したというので、私と木づちを抱えた木工場の友人が路地に出た時だった。

突如、オレンジ色の強烈な光が辺り一面を影もなく照らした。空を見上げたら、ドーンという爆音と爆風が体を襲い、私たちは、地面にたたきつけられた。工場に引き返すとガラスは割れ、工具や機材が散乱していた。

兄の姿がない。走って五分ほどの大浦町の自宅に戻ったが誰もいなかった。家は傾き、瓦はめくれていた。兄は大黒町の日通の車両工場に行ったと考え、家の戸板にチョークで「捜しに行く」と書き残し、走りだした。

大波止付近では、長崎駅方向から大勢の人が逃げてくるのが見えた。「兄貴もやられたかな」と思い、真っ青になって大黒町に向かった。辺りは黒煙で真っ暗。全身の体毛が焼け皮膚がただれた人、走ってきて倒れて動かなくなる人。そんな人があちこちにいた。そんな中、一人の女性が、服とわら草履を持てるだけ持って、逃げてくる女性に与えていた。焼け石に水だが、それでもたった一人で救援していた。

前に進めない状況だったので、引き返した。大黒町の缶詰倉庫は、壁の赤れんがが爆風で裂けていた。生き残った人はそこから侵入し、次々に缶詰を盗み出していた。

私と兄は消防団員で、ほかの消防団員から兄は県庁に行ったと聞いた。県庁の渡り廊下が焼け落ちそうになっており、その下に駐車していた公用車を移動させるよう要請されていたのだった。

原爆投下から一週間後、当時の長与村平木場郷にある母の実家に避難することにした。兄は仕事で自宅に残っていたので、一人で歩いて行ったが浦上地区は悲惨だった。あちこちに積み上げられた遺体のピラミッド。一メートル四方の防火水槽の中には、腰に革ベルトと短剣だけを残し、全身が真っ赤に焼けただれた消防署員の遺体。三人並んで電柱の下敷きになった、恐らく子どもの兄弟の遺体。思い出すと気が狂いそうだ。
<私の願い>
「テロとの戦い」というが、テロの原因を論じない限り、テロ特措法でテロは防げない。二十世紀は戦争の時代だったが、二十一世紀は共存共栄の時代にすべきだ。憲法九条はその基準になるので絶対に守らなければならない。

ページ上部へ