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私の被爆ノート

一面焼け野原に鳥肌

2008年1月24日 掲載
永田マサ子(81) 永田マサ子さん(81) 入市被爆 =大村市水主町=

「空襲で学校には行かれんばい」。中学生の弟が言った。すぐに、家族で近くの竹林にあった防空壕(ごう)に避難。飛来する戦闘機に関心があり、壕の入り口を開けてこわごわと眺めては、両親にたしなめられた記憶がある。その日もそうだったかは覚えていない。

当時、十九歳。長与村嬉里郷(当時)に住んでおり、農業で多忙だった両親の代わりに、二人の弟、三人の妹の面倒を見ることが多かった。

警報が解除され、用事を済ませようと、自宅前の坂道を一人で歩いていた時だった。強烈な爆風で道の脇の田んぼに吹き飛ばされた。何が起きたのか分からず、自宅に飛んで帰ると、両親が「近くに爆弾が落ちた」と慌てふためいていた。同じ長与村に住んでいた姉の安否を気遣って、気が気でない様子だった。

近くの長与小には長崎市内で被爆した負傷者が次々と汽車で運ばれて来ており、看護の手伝いをすることになった。黒く焼け焦げた人、全身の皮がはげて赤くなった人がいたが、多くは学生のようだった。「水をください」とうめき、水を渡そうとすると、係りの人に「やったら終わりぞ」と注意された。

手伝いの帰り道、戦闘機が飛来する音が聞こえると、田んぼの溝に慌てて飛び込んだ。怖くて目を開けることもできなかった。

八月十九日。長崎市銭座町に住んでいた母のいとこの消息が分からなかったため、母に頼まれて様子を見に行くことになった。汽車のデッキに立って向かったが、市内に近づくにつれ、肉が腐ったような異様なにおいが鼻をついた。

市内に着くと、一面焼け野原。道端に馬の骨が放置され、工場の巨大な鉄骨があめのようにぐにゃりとゆがんでいた。「ものすごい爆弾が落ちたのだ」と鳥肌が立った。いとこの家は焼けており、消息不明だったが、後日、やはり原爆で亡くなっていたことを遺族から知らされた。

終戦後、大村市に移り住んだ。貧血や鼻血がひどく、一九六二年に被爆者手帳を取得。当時、市内で手帳取得者は珍しく、「おたくは原爆病ですってね」と言われるたびにショックだったことが忘れられない。
<私の願い>
海上自衛隊のインド洋での給油活動が再開される。これが戦争の始まりになるのではないかと不安。政治家でも戦争を知らない世代が増えている。もっと別の方法はなかったのか。次の世代の人のためにも平和を壊してはいけない。

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