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私の被爆ノート

猛烈な爆風じっと耐え

2008年1月17日 掲載
冨永 康(74) 冨永 康さん(74) 爆心地から6キロ、長与村(当時)平木場郷で被爆 =長崎市中小島2丁目=

当時十一歳で長与村(当時)平木場郷にある洗切国民学校の五年生。四月まで家族六人で長崎市出雲に住んでいた。伯母と郵便局に勤める父だけが家に残り、私は親せきのいる長与村に母、弟、祖母と疎開していた。八月九日は登校日だったが、農家の子どもたちは農作業の手伝いで、疎開してきた児童のみ十一人が学校に来ていた。校舎内でむしろの上に麦をまき、乾燥させる作業をしていた。

午前十一時ごろ、上空で飛行機のエンジン音がした。飛行機が好きだった私は、一人で運動場に飛び出した。だが、飛行機は見えない。次の瞬間、長崎市内の上空がピカッと光った。照明弾かと思ったが、まだ昼間。おかしいと思いながらも怖かったので、とりあえず校舎の裏に回り、壁際に身を潜めた。しかし、「隠れるときはなるべく低い所に」と学校で指導されていたので、四、五メートル離れた所にあった溝にうつぶせで横たわった。両手の親指で耳を、残りの指で目をふさいだ。猛烈な爆風が吹いてきた。じっと耐えた。

どれくらいの時間がたっただろうか。そっと両手を離して辺りを見回すと、校舎はちゃんと立っている。取りあえず安堵(あんど)したが、壁際に目をやると、校舎の窓ガラスの破片が散乱しており、窓枠も落ちていた。「もし、あそこにいたら」と思うと、ぞっとした。

正午前に帰宅。爆風でふすまや障子が倒れていたが家族は無事。長崎市内の山から煙がもくもくと上がっているのが見えた。夜になると、長崎市内の上空が赤くなっていた。爆弾の影響か、ラジオも聞こえないので情報を知るすべがない。爆撃機が何機も飛んできた様子もない。長崎で何が起きたのか全く分からず、不安の中、ただひたすら長崎にいる父の無事を祈った。

十一日の夜、長崎市内の上空は依然赤いままで、まだ燃え続けているようだった。長崎市内にいた伯母が血相を変えて訪ねて来た。「長崎が燃えていて大変だ」と話した。父が無事だということを聞いて胸をなで下ろした。数日後、同じ集落の人が外見は変わった様子はないのに突然、歯茎から出血し、髪の毛が抜け落ちて死んでしまったと聞き、「新型爆弾」の恐ろしさを知った。
<私の願い>
核廃絶だけでなく、戦争は絶対反対。戦争は衣食住のすべてを奪い、人々の生活を壊してしまう。あのような生活はもうしたくない。現在、修学旅行生の観光ガイドなどをしているが、これまで通り戦争の悲惨さを訴えていきたい。

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