後田 繁子
後田 繁子(73)
爆心地から0.9キロの城山町2丁目(当時)で被爆 =長崎市女の都2丁目=

私の被爆ノート

黄色い光に気を失う

2008年1月10日 掲載
後田 繁子
後田 繁子(73) 爆心地から0.9キロの城山町2丁目(当時)で被爆 =長崎市女の都2丁目=

当時、城山国民学校の五年生。祖父、両親、二人の姉、弟、妹と暮らしていた。兄が四月ごろ長崎市内で米軍の機銃掃射を受けて亡くなっていたが、幼かったため特に戦争に反発心などを抱いていなかったように思う。九日は、午前中に警戒警報が鳴ったため、城山町二丁目(当時)の自宅近くにあった防空壕(ごう)に避難していたが、警戒が解除になったので自宅に帰っていた。

家の中で、近所の知人と母が話している様子をきょうだいと一緒になんとなく聞きながら過ごしていた際、一瞬、強烈な黄色い光が部屋の中に差してきて、すぐに気を失ってしまった。どのくらい時間がたったのか分からないが意識を取り戻した。家の中はむちゃくちゃになっていた。祖父はがれきの下敷きになり亡くなっていた。自分は、家の中に置いてあった荷物の上に飛ばされていた。新型の爆弾が落ちたなどということは想像もつかず、また空襲があったのかと考えた。

母、二番目の姉、弟、妹とともに家から逃げ出した。やけどを負っていたのか熱かったため、近くの川に向かった。川に着くと、逃げ出してきた近所の人が集まっていた。無我夢中で逃げていたため最初は気付かなかったが、爆風で飛ばされたときに腰を打っていたらしく後から痛みで動けなくなった。

家が壊れて生活できなくなったため、二、三日間防空壕で過ごした。原爆が投下された日は家にいなかった父と上の姉も帰ってきて、父方の親類の家に身を寄せることになった。生き残った家族の無事を喜んでいたが、八月十四日ごろに父が原爆の影響のためか亡くなったのに続き、妹も死亡。九月に入ると母、弟、二番目の姉と相次いで亡くなった。

上の姉と二人残され戦災孤児となってしまったが、親類の助けで生活していくことができた。伯母らにはかわいがってもらい本当に感謝している。
<私の願い>
やはり戦争はやるべきではない。戦争でなくとも銃を使った犯罪などが多い現在、凶器となり得るものは厳しく取り締まってほしいと思う。銃などが簡単に手に入ること自体が危険であり、市民の安全な生活を脅かしていると思う。

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