浦川 勝
浦川 勝(76)
浦川 勝さん(76) 爆心地から3.6キロの矢の平町で被爆 =長崎市矢の平2丁目=

私の被爆ノート

感覚まひ、何も感じない

2007年12月27日 掲載
浦川 勝
浦川 勝(76) 浦川 勝さん(76) 爆心地から3.6キロの矢の平町で被爆 =長崎市矢の平2丁目=

当時、旧制長崎中学の二年生で、普段は学徒動員のため、三菱兵器製作所大橋工場で働いていた。九日は、午前から警戒警報が鳴っていたため、工場には行かず、矢の平の自宅の庭で、近所の子どもたちと遊んでいた。

その時、ピカッと赤茶色のような、ものすごい閃光(せんこう)が走った。直後、辺り一帯に爆風が吹き荒れ、土煙が舞い、視界が閉ざされた。

数分後、視界が次第に晴れてきた。自分も子どもたちも、けがはなかったが、家の屋根は半分吹き飛び、室内はたんすや棚が倒れ、ガラスの破片がそこら中に散らばっていた。ひとまず子どもたちを家に帰らせた。

散らかった室内の片付けをしていると、近所の人たちの「浦上のほうは全滅だ」という声が聞こえてきた。当時、母と下宿していた親せきの医大生と三人暮らし。大学病院に通っていた親せきのことが心配になり、一人で飛び出した。

現在の桜町を通り、JR長崎駅付近から、国道に沿って大学病院を目指した。頭皮が焼けただれた人、体の半分だけ真っ黒になった人、そしておびただしい数の死体。すでに感覚はまひし、何も感じない。ただ、親せきを捜すことだけしか頭になかった。

死体に阻まれ真っすぐに進むことはできなかったが、やっとの思いで大学病院へ。しかし、そこには病院の鉄筋コンクリートが残っているのみで、ほかに何もなかった。燃え尽きて灰になったのだろう、死体さえもなかった。病院内に入り、辺りの灰を、ひび割れた器に入れて帰ることにした。

さすがに多くの死体があった来た道を引き返すことはためらった。行きとは違う、山を越えて西山に向かうコースを選んだが、山中にも多くの死体が連なっていた。

それから三日後。救護所となっていた近くの小学校に手伝いに行った。ひっきりなしに運ばれてくるけが人。次々に死んでいく人たち。そこはまさに地獄だった。

講堂から、グラウンドに死体を運び、並べて燃やし続けた。焼け残った骨は、四畳半ぐらいの大きな穴を数カ所掘って埋めた。作業は終戦後もしばらく続いた。
<私の願い>
戦争反対とみなが言う。核兵器廃絶とみなが願う。しかし、現実には世界中のどこかで絶えず戦争は起きており、核兵器は、廃絶どころか世界中に拡散している。この現状に歯がゆさを感じている。日本でも憲法を改正し、九条を変えようとする動きがある。九条は日本が世界に誇れるものであり、堅持すべきだ。悲しみのない世界になってほしいと願う。

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