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私の被爆ノート

辺りに異臭立ち込める

2007年12月20日 掲載
今道 忍(70) 今道 忍さん(70) 爆心地から4.5キロの西泊町で被爆 =西彼長与町吉無田郷=

母、弟二人と一緒に西泊町の自宅で遊んでいた。父は家から二百メートルほど離れた逓信省海底線工事事務所に勤務中だった。

突如、ものすごい衝撃が家を襲った。仏壇が倒れ、食器は散乱。たんすの上から物が落ちてきたが、けが人はなかった。

私たちは壕(ごう)に避難。衝撃がすごかった上に、父がいる工場脇に、砲台を積んだ敷設船が係留していたので、それが米軍機に狙われたと思った。心配になった母は工場に向かったが、父も家族が心配で家に向かってきており、二人は道端でばったり出会ったという。

しばらくして壕を出ると、浦上方面の山の方で赤いような紫のような変な色の煙が見えた。みんな外に出て「あれは何だろう」と見詰めていた。

原爆投下から九日後。父の同僚の実家がある現在の西海市西彼町大串郷に一家で疎開するため、ふとんなど家財道具を大八車に積んで歩き始めた。父が車を引き、母は弟を背負って歩いた。私も初めは歩いていたが、わら草履の鼻緒で足が擦れて痛かったので、途中から大八車に乗り込んだ。

浦上地区に入ると一面、灰色がかった焼け野原。私たちと同じように疎開しようとしているのか、大八車やリヤカーを押す人の姿があった。馬の死骸(しがい)が転がっていた。辺りは、遺体のにおいか何か分からないが、いろいろ入り交じった変なにおいが立ち込めており、手ぬぐいで鼻を覆って進んだ。今でも、ごみを焼くと、そのときの情景がよみがえってくる。現在の長崎市琴海付近で、学校の倉庫に一泊させてもらったが、大量の蚊のせいで一睡もできなかった。

疎開先は農家で、白米を食べさせてくれたり、とにかく親切だった。同い年ぐらいの女の子がいて、一緒に教科書を広げて勉強したりした。だが食糧難の時代。一家五人が世話になるのは心苦しく、一週間もしないうちに家に戻ることにした。

帰る途中、大八車の心棒が折れてしまった。父が山に入り、カシの木をなたで切って心棒にした。それでも、しばらくすると折れてしまうので何本も作り直したが、とうとう道端の農家に大八車を預けて帰ってきた。後日、父が鉄骨屋に心棒を作らせて、大八車に取り付けて帰ってきた。
<私の願い>
修学旅行生に原爆遺構などをガイドしているが、予想以上の反応で、やりがいを感じている。核兵器廃絶のために行動することが、生き残った被爆者の務めであり、戦争や原爆による死没者への追悼になると思う。

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