長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

海も夜空も赤く染まる

2007年12月13日 掲載
羽田 安富(80) 羽田 安富さん(80) 爆心地から5.4キロの長崎市戸町2丁目で被爆 =島原市中堀町

島原市の島原第一尋常高等小を卒業後、十五歳から家業の理髪店を手伝う傍ら、島原城近くの監視所で敵機の監視に当たっていた。一九四三年、徴用で長崎市の三菱造船所大橋工場に入所。四五年初めから戸町のトンネル工場でねじを作っていた。当時十八歳。

同年八月九日。この日も、トンネルの入り口から二十-三十メートルの所で作業をしていた。突然強い爆風が吹き込み、トンネルの入り口が崩れた。しばらくたち、トンネルを出て山に登ってみると、浦上の方向に大きな白い雲が立ち上っているのが見えた。何が起こったのか分からなかった。

夜になると、長崎駅近くのガスタンクが爆発して燃え上がり、海も夜空も赤く染まっていた。その日はトンネル工場近くの集合所に泊まった。

十一日、大橋工場の負傷者の救護と死体の処理に当たるよう指示があり、二十人ぐらいの仲間と一緒に市内中心部に入った。長崎駅から先は一面の焼け野原で、道路と浦上川には遺体がいくつもあった。まだ息がある人は「水をくれ」「助けてくれ」と泣き叫んでいた。あまりの惨状に、「地獄絵もこれほどではない」と思えた。

翌日も負傷者の搬送を続けた。午後七時ごろ、三菱の駒場寮へ向かったが、松山の電停付近は死体が山積みで、結局たどり着けなかった。十三日は大橋工場の庭で遺体の焼却作業に従事。犠牲者の中には、工場で勤労奉仕していた純心女学校の生徒も大勢いた。自分と同世代の女子生徒の変わり果てた姿を見て、胸が締め付けられそうだった。

十五日、工場長から終戦を知らされたが、にわかには信じられず、工場の後片付けを続けた。二十日に徴用解除となり、二十二日、島原に帰郷した。戦後は父とともに家業に励み、今も妻と理髪店を続けている。

島原から長崎に出てきた当時、下宿させてもらっていた坂本町の叔母一家は五人とも亡くなった。もし、あのまま大橋工場に勤めていたら、私もこの世にはいなかったかもしれない。
(島原)

<私の願い>
多くの一般市民の命を一瞬にして奪う核兵器は、絶対に許せない。戦時中は物事を考える余裕すらなかったが、戦後六十年以上がたち、平和の尊さ、ありがたさをしみじみと感じる。もう二度と、あんな悲惨な体験を味わわせたくない。

ページ上部へ