吉田敬三郎
吉田敬三郎(76)
吉田敬三郎さん(76) 爆心地から5.5キロの田手原町で被爆 =長崎市麹屋町=

私の被爆ノート

耳に残る子どもの泣き声

2007年12月6日 掲載
吉田敬三郎
吉田敬三郎(76) 吉田敬三郎さん(76) 爆心地から5.5キロの田手原町で被爆 =長崎市麹屋町=

当時十三歳。父を六歳のときに亡くし、母と兄妹らの家族五人で長崎市立山町(現・西山一丁目)に住んでいた。通っていた竹の久保町の鎮西中学は登校日と作業日に分かれており、各学年で三菱の兵器工場や長崎駅の機関庫に工員として動員されていた。

あの日はたまたま作業日で、田手原町の山の中で戦車をがけから落とすための人工の「戦車断崖」を作っていた。米軍が茂木港から上陸し、市内中心部へ進軍したときのために作るよう命じられた。市内の中学校から集まった同じ年代の学生たちが百人ぐらいいたと思う。一列に並び、くわで斜面を削っていた。

その時だった。ピカッという閃光(せんこう)が辺りに走り、次の瞬間、後ろの方からドーンと耳をつんざくような音。熱風も吹き付けてきた。幸い爆心地から遠かったこともあり、けが人はなかったが、市内の中心部の空が曇っている。「何か大きな爆弾が落ちたらしい」と仲間で話し合った。ただ事ではないと思い、皆が家に帰り始めた。私も友人らと家に帰った。英彦山から下をのぞいてみると、馬町の本通りをやけどした人たちが蛍茶屋方向に歩いていくのが見えた。

私の家は金比羅山の登山道路沿いにあった。爆風で屋根は吹き飛び、家はめちゃくちゃに壊れていた。家族の安否が気になったが、母は家の外に逃げ出して無事、兄と姉、妹も学校や職場からそれぞれ帰ってきたのでほっとした。夕方ごろになると、大勢の人が山を下りてきた。被爆した人たちが被害の少ない場所を求め、山を越えて逃げてきたのだった。母親に手を引かれ泣きじゃくる女の子。頭や体全体の皮膚がただれて今にもずれ落ちそうになりながら歯を食いしばって歩く兵隊。その悲惨さは思わず目を覆いたくなるようで、子どもらの泣き声は今も耳から離れない。

学校のことが気になったので、山を下りてくる男性に尋ねた。浦上地区から長崎駅付近まで大火事にさらされ、がれきだらけでまともに歩けないと聞き、学校の様子を確認できなかった。後で分かったことだが、学校は半壊、先生は五人、生徒は百人以上亡くなったらしい。亡くなった同級生たちの無念さを思うと今も涙が止まらない。
<私の願い>
多くの友人や先生を奪った原爆がとても憎い。現在、修学旅行生を相手にボランティアで長崎市内の観光ガイドをしているが、多くの人たちに原爆の悲惨さを伝えていきたい。早く核兵器のない平和な世の中になってほしい。

ページ上部へ