当時二十一歳。西彼三重村(当時)の実家を離れて長崎市駒場町二丁目(現松山町)の伯母の家に下宿していた。三菱製鋼長崎製鋼所(茂里町)に勤め、石炭を運ぶ仕事をしていた。「日本が負けないように」と思いながら毎日仕事に励んでいた。
あの日は休みをもらって三重の実家に帰っていた。まだ小さかった妹や親せきの子どもたちを庭で遊ばせていると、突然強い風が吹いてきた。それまで晴れていた空は曇り、暗くなった。
子どもたちを急いで家の中に避難させ、布団をかぶせた。家が壊れたりはしなかったが、「何か大きな爆弾が落ちたのか」と思った。夕方、爆弾で長崎中心部一帯が壊滅したと、人づてに聞いた。
翌朝から、三重に人が避難してくるようになった。長崎の状況を知りたいと考え、実家の近くに住んでいた伯父二人と夜から長崎に歩いて向かった。
道路はがれきでふさがれていたため、線路を歩いた。線路の両脇は逃げ出してきた人であふれていた。「助けてくれ」「水をください」という声があちこちで聞こえた。「けが人に水を飲ませると死ぬ」と聞いていたので、涙が出そうになりながら通り過ぎた。今思うと、飲ませてあげればよかったと後悔している。
伯母の家は跡形もなく壊れていた。いとこ(伯母の長女)の五人の子どもたちのうち三人は防空壕(ごう)に避難していて無事だったが、いとこは自宅のがれきの下敷きになって亡くなっていた。伯母は近所の友人宅の縁側で談笑中に被爆し、白骨になって見つかった。 もう一人のいとこ(伯母の二男)は、当時通っていた坂本町の長崎医科大付属医学専門部(現同一丁目)で、爆風によって飛ばされ頭を打ち、その後亡くなった。
悲しむ余裕はなく涙も出なかった。十二日夜に伯母と二人のいとこの遺骨を持ち、実家まで歩いて帰った。伯父と二人で帰ったが、道中は疲れ果てて何も話さなかった。
<私の願い>
平和を長く続けていくためには、個人間の争いをなくすことから始めなければならないと思う。あんな悲惨な戦争は最後にしてほしい。戦争を知らない若い世代の人たちにも、その恐ろしさについて考えてほしい。再びあれだけ大きな戦争が起きればその後が大変だと思う。