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私の被爆ノート

はだしのまま防空壕へ

2007年11月15日 掲載
神尾 一人(79) 神尾 一人さん(79) 爆心地から5キロの小菅町で被爆 =長崎市大浜町=

当時十七歳。香焼町(現在)にあった川南造船所に勤め、完成した船を進水するのが仕事だった。実家は小菅町。戸町から造船所まで船で通っていた。

原爆投下の前日、小菅町の「そろばんドック」が爆撃を受けた。危ないと思い、翌日は会社を休み、近くの同僚の家に遊びに行った。

同僚二人と家の中でしゃべっていると突然、熱風が襲い、三人は障子と一緒に五メートルほど吹き飛ばされた。がたがた震え、はだしのまま防空壕(ごう)に避難した。近くに爆弾が落ちたと思った。

二日後。大橋町の三菱兵器工場に勤めていた町内の二十歳前後の娘さんが帰ってこないらしい。私も含め青年団の約十人で歩いて捜しに行った。

長崎駅周辺は一面、焼け野原。婦人会の人が通行人に、にぎり飯を新聞紙で包んで配っており、私も二、三個もらった。白米を食べたことがなかったので食べたかったが、「けが人にやらんば」と、思いとどまった。大学病院付近で、母親と男の子が手をつないで歩いていた。二人とも服はぼろぼろ。顔はただれ、髪がなかった。男の子におにぎりをあげようとしたら、手で押しのけて「水が欲しい」と言った。

大橋町には焼け焦げた死体が散乱していた。においがひどく、手ぬぐいで鼻を押さえて歩いた。腹が膨れ上がった馬があおむけになって死に、川には吹き飛ばされた路面電車が落ちていた。

B29の音が聞こえたので、道路脇の溝の中に慌てて伏せた。起き上がるとき、手のひらにぬるっとした感触があった。死体の上に伏せており、その皮がはがれたのだ。

三菱兵器工場の中に入ると、作業員の女性があちこちで重なり合って死んでいた。死体の腕時計を見ると「十一時二分」で止まっていた。作業服に縫い付けられた名前を確認しながら娘さんを捜したが、見つからなかった。娘さんは山の方に避難していたらしく、三日後に帰宅したが、しばらくして死んだという。

職場に復帰したものの、上司から「こんな状況じゃ仕事にならん。茂里町で死体を焼く手伝いをしてこい」と言われた。茂里町に通って死体を焼き続けたが、においで具合が悪くなり、三日目には通うのをやめた。
<私の願い>
核保有国は戦争が好きで、世界の主導権を握りたいのだろう。私は核兵器廃絶を求めて月一回、仲間と署名活動をしており、元気な限り続けていく。高校生一万人署名活動は心強い。世界に平和を訴え続けてほしい。

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