当時、長崎医科大付属医学専門部の二年生。一日も早く軍医を育てるとの国の方針で学校は夏休みも日曜もなかった。八月九日も普段通りの授業だったが、私は学校をさぼって新大工町の眼鏡屋にいた。佐世保市の実家にいた母親が眼鏡の縁を壊し、「佐世保には(品不足で)ない。長崎で探してほしい」と頼まれていたからだ。
友人から教えてもらった眼鏡屋に着いてしばらくすると、「ブーン」という音が聞こえてきた。「飛行機の爆音だ。敵機だ」と思い、店のガラス戸の玄関から身を外に乗り出した瞬間、ピカッと巨大な光に襲われた。マグネシウムを燃やしたときのような紫色に感じた。
眼鏡屋の防空壕(ごう)にいたのは二、三分か四、五分だったか。外に出ると、周りの家の瓦は魚のうろこを落としたように散乱していた。「やられた」と女の人が髪を振り乱していた。
今の長崎大経済学部(片淵四丁目)前にあった下宿に戻ると、(爆風で)たんすもひっくり返り、荒れ放題だった。そのうち少しずつ情報が入り、浦上の方が全滅したことが分かった。下宿の人たちと「二発目が落ちたらどうしようか」などと相談し、その晩は下宿の床下に身を潜めた。
翌朝、坂本地区にあった学校に向かった。途中、黒焦げの遺体が横たわり焼けた路面電車の残骸(ざんがい)があった。一面の焼け野原だった。
何とか正門に着くと、米軍がまいた降伏を呼び掛けるビラを先生たちが読んでいた。木造校舎は焼失し跡形もない。前日、学校で授業を受けていた同級生らを捜しに裏山に登ると、先生や友人らが負傷して横たわったり、座り込んだりしていた。顔は真っ黒にすすけ、男女の区別もつかない。名前を聞いてようやく誰だか分かるほど。救護するにも薬もなく、励ますことしかできなかった。
同じ下宿で暮らしていた四年生の肥後さんは遺体で見つかり、下宿近くの空き地で火葬した。戦争に負けたと思った。私の同級生は百六十人いたが、約百十人が原爆の犠牲になった。戦後、授業が再開した時は四十人ぐらいしか集まらなかった。あの日、授業に出ていたら私も助からなかっただろう。
<私の願い>
戦時中はろくな食べ物がなく、いつもおなかをすかせていた。原爆で友人も失った。本当につらかった。それが戦争。今の日本人は怠惰に流れていないか。平和ぼけしていてはいけない。